「花畑通信への投稿」は、1997年末から1999年初頭にかけ、東南アジア各地を旅した後、タイで末期エイズ患者のホスピスを運営するカトリック修道院でボランティアとして働いていたころの様子を、ある大阪拘置所の死刑囚を支援する会の会報「花畑通信」に投稿したものです。
確定した死刑囚は外部からの手紙を受け取ることはできません。そこで機転を利かしたのが編集長のY.S.さん。投稿は全てY.S.さん宛ての手紙、という形式を取っていますが、実は、本当の宛先は死刑囚の方でした。「これは会員の投稿を掲載した『雑誌』です」という大義名分の下、たった2冊しか発行されないその「雑誌」は死刑囚の方奥様の手を介して手元に届いたのでした。
思えばそんな「ミエミエな演出」を寛大にも黙認して下さった拘置所の職員さんにもあらためて感謝を申し上げたい気持ちです。
花畑通信へ投稿
Y.S.様
焼けつく陽差し。目前に広がるのはエメラルドグリーンのアンダマン海。海を見下ろすホテルの部屋には、時折、そよ風がタイの古い調べを運んでくれます。
なんて書くとまさに高級リゾートを満喫しているように聞こえますが、その実は食っちゃ寝、食っちゃ寝、日中は暑いのでマグロのようにそこら中でゴロゴロしているだけのぐうたらした生活を送っています。
ここパトンビーチはプーケット島の中でも最大のリゾート地で、年中外国人観光客で賑わっています。日中はマリンスポーツを楽しむ観光客や白い砂浜に寝そべるビキニ姿の美女達が南国気分を盛り上げていますが、日没後ともなると、タイ名物(?)のゴーゴーダンサーが踊るナイトクラブや見渡す限りの売春婦が客を待つ屋外バーが活気に満ち、街の中心部はちょっと異様な雰囲気に包まれます。
うじゃうじゃ、という表現がまさにぴったりの数の売春婦が必死になって外国人客に声をかけている姿を見ると、少し複雑な気持ちになります。聞くところによれば、今タイでは大卒の初任給が日本円で約2万~3万円。一概に生活水準を比較するのは難しいけれど、例えば日本でお昼に食べるラーメンが5、6百円として、こちらでそれに相当する麺類やチャーハンはたったの5、6十円。逆に言うと、お昼ごはんを5、60円で過ごす感覚がこちらの庶民の実態と言えるのかもしれません。
では売春婦はどうでしょう。ゴーゴーバーで客から指名を受け、横に座って6百円から千円(もっとも半分は店の取り分となりますが)。「テイクアウト」が3千円で、それ以上のサービスとなると本人へのチップが約3~5千円というわけです。現在タイの通貨バーツが大幅下落したため、円換算では更に「割安感」を感じてしまいますが、それにしてもうまくいけば一晩で大卒の初任給の四分の一程度を稼いでしまうわけで、こうした商売がなくならないのもうなずけます。
ただ、日本でも援助交際が問題になりましたが、やはり決定的な違いはこちらの売春婦にとっては彼女達だけではなく、故郷の家族の生活がかかっているということです。多くの売春婦たちが、別にブランド品をまとうでもなく、車を買うでもなく、その収入を実家へ仕送りしているようです。
ある現地の友人に「彼女達は例えばエイズに対する恐れはないのかなあ?」と聞いたら「彼女達にあるのは今日という日だけ。仮にHIVに感染していたとしても、検査や治療を受けようなどという知識がなく、自分がエイズだと知らないで死んでいくケースも少なくないんじゃないかな」と言っていました。
なんて悲しいことでしょう。信じられますか?
もっとも「タイ=売春」などと単純に決めつけてしまうのは大間違いです。確かに、タイ社会の性風俗にたいするおおらかさからか、現在国内には約50万人のHIV感染者がいるとされています。でもほとんどの人はそれでもコツコツと働いて、ひた向きに生活しているのです。僕はおおらかなタイの人々が大好きです。でもそのおおらかさが裏目に出てしまい、悲劇を生んでしまっていることには胸が痛みます。
悲劇、と言いましたが、ともすると死に直面している彼女達はそれを悲劇だなどと知るすべもなく死んでいくかもしれないのです。
まったく、命って何なのでしょう。
彼女達はそんなことを考えさせてくれます。
さて、陽も傾いてきてちょうどいい陽気になってきたので、ちょっと潮風でも浴びに海辺を散歩しに行って来ます。
1997年11月19日
タイ・プーケットにて、 仲谷郁治
花畑通信へ投稿
Y.S.様
今回はシンガポールからです。実は大学時代の友人宅で厄介になってるんですが、結婚したての彼等夫婦にとって、プー太郎のお邪魔虫がいきなり(本当にいきなりだったんです)居候を始め、迷惑以外の何ものでもないのではないかと密かに心配しています。
しかも、旧友との久しぶりの再会や、家の中が全て日本語なものだから安心して気が緩んだのでしょうか、彼のマンションに転がり込むなり風邪をひいてしまい、ほとんどどこへもいかずにベッドでゴホゴホやってる始末です。もうだいぶ良くなったんですけどね。あとちょっとです。
シンガポールは先進国の都会とほとんど変わりありません。特に日本の物資は豊富で食べ物から日用品まで何でも揃います。冷房のほどよく効いたオーチャード通り近くの友人のマンションでパヴァロッティやバルトーリの歌声に耳を傾けながらイタリアワインを飲んでいると、あのバンコクの喧騒が嘘のように思えてきます。
前回はプーケットからでしたよね。さすがにビーチリゾートに十日間も一人でいるといかに楽園でも辟易してきます。海で泳いでいる自分が人間なのか魚なのかわからなくなってきて、「これはまずい」ということで、ビーチ巡りは中断し、いったんバンコクの友人のもとへ戻りました。
バンコクでは友人の弁護士夫妻と検察官夫妻に信じられないほどお世話になっていますが、こちらの人のホスピタリテイーというのは日本の常識では考えられないほど徹底的にいたれりつくせりです。しかも当人達だけではなく、親戚一同が「これでもか」というほどよくしてくれます。とにかくお金にしたって、彼等と一緒にいる時には一銭も使わせてくれないんですから。
プーケットからバンコクへいったん戻った際はホテルではなく、友人の実家の一室に泊めてもらいました。僕が「ホテルでいいよ」というと「ホテル代がもったいない!」と言うのです。友人の家にも客間はあるのですが、冷房が使えないとのことで、すでに実家の方々との話はついているようでした。全てそんな塩梅なんです。今彼等の頭には如何に僕にお金を使わせずにしたいことを全部させてあげられるか、それしかありません。本当なんです。いかに恵まれた生活をしているか、想像できますか?
忘れかけていた排気ガスの臭いをバンコクで存分に吸った後、マレーシアはペナンに向かいました。ペナンは全く予定外だったのですが、プーケットで泊まったホテルで、そのホテルのオーナーと親しくなり、家族のいるペナンへ遊びに来ないかというのでお言葉に甘えさせてもらった次第です。そのオーナーのお客さん用のマンションを一人で使わせてもらいました。息子がちょうど僕と同じ位の年齢で、アメリカに留学していたので英語も話せ、あっちこっち案内してくれました。彼が忙しい時には彼の弟や仲間が始終面倒を見てくれ、ここでもまさに至れり尽くせりでした。
どうもこちらでは一人の人と友達になると、その家族から友人に至るまでが何かにつけ、面倒をみてくれるようです。バンコクの友人にそのことを尋ねたら、「そうやってみんなで助け合っているんだよ。自分も頼む代わりに、自分が頼まれたら出来る限りのことをするよ」と答えていました。
みんな本当に助け合って生きているんだなあ、と言うことを肌で感じました。そしてそんな彼等の仲間意識というか、共同体意識をうらやましく思いました。人間一人じゃ生きていけないですからね。
今週末は日本からもう一人、学生時代の友達がシンガポールに遊びに来ます。旧交を暖めた後、再びバンコクへ戻り、次はインドです。
1997年11月27日
シンガポールにて、仲谷郁治
花畑通信へ投稿
Y.S.様
次はインド・・・と書きましたが、インド旅行は延期してもう少しタイに留まり、それからカンボジアとベトナムへでも行ってみようかと思っています。今回はバンコクから北東へ約60キロ、パトムタニーという地域のラムサイ村にあるフランシスコ会の施設からです。
ハイウエイをおりて、両側を田んぼとヤシの木に囲まれた舗装もされていない道をしばらく走ると、白亜の壁に赤い屋根の建物群が見えて来ます。敷地はおそらく数千坪から一万坪、あるいはそれ以上あるかもしれません。庭あり、池あり、運河ありで、客室がバンガロー風になっているところなど、一見南国のリゾートホテルのようです。広大な敷地の半分が黙想の家、そしてあとの半分が末期エイズ患者のホスピスとなっていて、以前日本で知り合ったサマーズ修道士が運営していています。
ここへ来てすぐの八日午後、一人の患者が亡くなりました。ホスピスの人の出入りが激しくなったので、もしや、と思っていたら、しばらくして毛布に包まれた遺体が担架で運び出されて来ました。亡くなったのはタイ人の青年で若干28才。サマーズ修道士が青年の身分証明書の写真を見せてくれましたが、なかなかの好青年でした。でも約半月前、彼が運び込まれて来た時にはひどく痩せていて、写真の面影はほとんどなかったそうです。
ほとんどの患者が施設に運び込まれてから平均3週間で息を引き取るとのことです。この施設で受け入れるのはお金が払えずに病院を追い出された人や、身寄りの無い人、あるいは身寄りがあってもエイズだということで引き取りを拒否され、行くあてのない人達です。
患者さんを訪ねて病棟へも時折行ってみるのですが、皆とてもきれいな目をしています。僕が片言のタイ語で「ワタシ・・ニホン・・トキヤウ(東京の事)。タイゴ・・デキナイ・・スコシ」なんて調子で話しかけるととても素敵な笑顔で微笑んでくれます。
タイ人ばかりではありません。カンボジアやビルマの人も多いようです。2カ月前に運び込まれたカンボジア人の女性(48)は子供が五人。三人は結婚して子供もいるようですが一人は戦争で身障者に。本人は故郷の病院に入院していたものの(たぶんすでにエイズで)、入院費が払えなくなり、一番下の12才の女の子を売り、密入国ブローカーに頼んで、乞食をするためにジャングルを歩いてタイにやってきたそうです。ところが警察につかまり、身寄りのないエイズ患者として、この施設へと送られてきました。現在その女性はすでに虫の息です。何とかカンボジアの家族の元で死なせてあげられないか、検討中です。ちなみに売り飛ばされてしまった女の子、いくらで売られたと思いますか?120米ドル、つまり約1万5千円だそうです。
患者さんの世話をしているシスター・アリーサに「変な質問かもしれませんが、こうして人が来ては亡くなり、来ては亡くなり、というのは率直に言ってどうですか?」と尋ねたら、うつむきながら「やっぱり命って何なのだろうって考えさせられるわ。信仰が試されるわね」と答えていました。
シスターはベテラン看護婦でフィリピン人。マニラでは総合病院のICUで看護婦をしていました。「着いたとたんに亡くなる人もいるけど、せっかく持ち直して歩けるようになったと思ったら突然死んでしまったり。でもほとんどの人が安らかな死を迎えるわ。それまでの人生にはいろいろあったのでしょうけど、最期にここで働く人の愛情や美しい自然に触れ、命の素晴しさを体験してから神に召されてほしい。生きるということは素晴しいことなんだ、ということを知ってもらってから送り出したいの。病院ではありとあらゆる設備を用いてとにかく生かそうという努力をするわけだけど、ここは違う。いかに安らかに旅立たせてあげられるかだから」と話していました。
シスターは新しい患者が来る度に次のように祈るそうです。「どうか神様、私にこの人のお世話をさせていただく時間を下さい。そしてできたらあなたの事を話してあげられるくらいまでに回復させてあげて下さい。命の素晴しさを知ってからあなたに召されることができますように」と。シスターの祈りが通じてか、運び込まれた時にはもう駄目かと思われるような患者でも、その多くがいったんは持ち直して庭の池の周りを散歩したり、日向ぼっこをしたりしながら最期の時を過ごすそうです。
この2年間ですでに百人以上の人がここで最期を迎えました。中には自殺を図ったり、精神異常をきたしてしまったりする人もいるようで、なかなか一筋縄ではいかないようですが、ここで働く人達は皆、様々な困難に直面しつつも生き生きと仕事をしているように見えます。
現在タイの末期エイズ患者用の施設としてはこことあともう一つ、仏教のお寺が経営しているホスピスがあるだけだそうです。ここの施設も常時はサマーズ修道士とシスターが二人、アメリカ人のボランティアと数人のタイ人のヘルパーといった小さな所帯です。患者の数は入れ替わりが激しいので何とも言えませんが、平均して7、8人前後といったところです。「もう少し受け入れようと思えばできないことはないけど、一人一人にベストなケアをしようと思うと現在の人手ではその位が精一杯。でも家族のある人は家で死なせてあげたい。仮にここをどんなに素晴しい所にすることができたとしても、There is no other place like home(自分の家に優る所はない)」とサマーズ修道士は言います。
エイズ患者、と言うとどんなイメージを持ちますか?アメリカでも最近は使われなくなった言葉のようですが、輸血などで感染した所謂イノセント・ヴィクティム(Innocent victim/罪無き犠牲者)は日本でもよく話題になります。でも苦しんでいるのは彼等だけではないのです。過去の行いから感染してしまった人はともすると「自業自得」とされてしまうのではないでしょうか。
このホスピスでは患者がどのように感染したかは特に聞きません。でも麻薬や性交渉から感染したであろうケースがほとんどのようです。彼等だって死にたくないのです。後悔しているかもしれません。或いは「無知」や運命を嘆いているかもしれません。
人間誰だって「しまった!」「何であんなことをしてしまったのだろう」と思うことは一度や二度ではないはずです。拘置所のMさんだってそうでしょう?殺人だったにせよ、過剰防衛だったにせよ。取返しのつかないことをした人の命だからと言って、命はやはり命なのです。
聖書にだって出てくるじゃないですか。姦通したとして石を投げつけてマグダラのマリアを殺そうとしている群衆に向かってイエスは「あなたがたのうち罪を犯したことのない人がまずこの女に石を投げなさい」と言います。すると群衆は一人また一人と去っていってしまうでしょう。
人から「可愛そう」と言ってもらえる人はいいけど、そうでない人も多いんですよね。もし自分が「しまった!」と思った時、誰も振り向いてくれなかったらどんなに辛いでしょう。僕はそんなの耐えられません。自分だってそうなりたくない。だから彼等にもそうなってほしくない。だからMさんにも、ここの患者さんにもそんな思いをしてほしくありません。
そんな話をサマーズ修道士やシスター達ともしました。皆同じ考えでした。人間誰しも弱いわけで、いつ何をしてしまうかわからない。或いは自分達が受けられたような教育や経済的な環境がなければ、或いはここに来た彼等と同じ運命をたどったかもしれない。
僕達に出来ることはそうした彼等と共に「歩む」ことかもしれません。「歩んであげる」わけではありません。だって同じなんですから。弱い人間であるという点では。もし違うところがあるとしたら、未だにフラフラしている僕などと違って、彼等は今まさに「命」という問題に直面していることでしょう。
今週に入って3人が亡くなりました。今新たに3、4人が入居待ちです。
1997年12月11日
タイ・ラムサイ村にて、仲谷郁治
花畑通信へ投稿
Y.S.様
「僕が外へ出て行くと子供達が怖がって逃げてしまうんだー」。ソックピーさん(32)が悲しそうにつぶやきました。手にはベトナム語で書かれたエイズのパンフレット。「普通にしていれば感染しないんでしょう?」そうまじまじと聞かれると「そりゃそうだよ」と答えながらも、あらためて差別と偏見の現状を前に胸が痛む思いでした。
彼はベトナム系のカンボジア人で1970年代後半、ポル・ポトによる大虐殺を逃れるため、両親と共に一時ベトナムへ避難。再びカンボジアへ戻り、電気技師として働き、結婚して子供も生まれたものの、HIVに感染してしまいました。今は妻子にも見放され、プノンペンの親戚の家の近くで一人暮しをしています。
彼の部屋は広さ約2畳。電気や水道はなく、雨が降るとトタン屋根の隙間から容赦なく雨水が漏れて来ます。部屋は「長屋」の一室で、百ドル(約1万3千円)で購入しました。
ここプノンペンでは、タイのフランシスコ会の施設に来ていたカトリック・メリノール会のシスターが主催する結核やHIV感染者の支援団体のお世話になっています。シスターによると、ソックピーさんも2カ月前には瀕死の状態だったとのこと。痩せてはいるものの、今では外を歩けるくらい元気になりました。
ソックピーさん、僕はてっきり20歳前後だと思ったら、同じ年と聞いてびっくりしました。彼が路地の外まで見送りに来てくれたので、両手を握り締めながら「ソック・サバイ(元気で)」と別れの言葉を交しましたが、焼けつく日差しとは対照的に、彼の手はやわらかく、ひんやりとしていました。遊んでいた子供達はそんな光景を不思議そうにじっと見つめていました。
他にもいくつかの家庭を訪問しました。プノンペンではごく中心部の主要道路以外は舗装もされておらず、人民の足たるオートバイで移動するわけですが、ホコリのすごいことといったらありません。それに加えて排気ガス。布で鼻を覆い、思いきり息を吸ってはしばらく息を止めて我慢、息を吸っては我慢、の連続です。目も開けていられません。非常に細かい粉塵なので、ホテルに帰るころには、たばこを一度に10本吸ったみたいに胸が変になります。
支援会が訪れる先は特に貧しい家庭が中心ですが、こちらの貧しさは並み大抵ではありません。衛生状況は劣悪です。電気、水道なんて夢の夢でしょう。そんな現実に触れる時、なんだかとても複雑な気持ちになります。僕のこれまでの人生と自分が目の前にしている人達の人生にはあまりの差があります。同じ人間で、僕の命も彼等の命もその価値は等しいはずです。ところが僕が住んでいる世界、僕が出来ること、それは彼等の住む世界、彼等が出来ることとには天と地の差があります。
ある家庭では娘が仕事を得るために必要な準備金を揃えることができず、彼女を働かせることさえできません。こちらでは仕事を得るためには雇用者にお金を払わないといけません。月給が30ドルなのに最初に手数料として20ドル必要です。そこまでして貧しい人はお金を巻き上げられています。
先日、車をハイヤーしてプノンペンから南へ約15キロ、ポル・ポト時代に約2万人の虐殺が行われた通称「キリング・フィールド」に行って来ました。行く前にシスターが「あまりのすごさにショックを受けないように」と忠告してくれていたので、どんなに恐ろしいところかと思いながら向かったのですが、実際僕を迎えてくれたのは、田んぼや白牛がゆっくりと歩いている、といった極めてのどかな農村風景でした。
敷地の門を入ると五重塔風の塔がまず目に入ります。高さ20メートル以上あるガラス張りの塔の中には、周囲から掘り起こされた約9千の頭蓋骨が納められています。上から下まで、塔の中は人間の頭蓋骨がぎっしりと詰まっています。
ポル・ポト軍は大きな穴を幾つも掘り、犠牲者を並ばせて竹の棒で後頭部を殴って殺しては穴の中に放り込んだ由。そうした穴が今や掘り起こされていますが、周囲を歩くと足元には犠牲者の砕けた遺骨や洋服が今でも無数に散乱していています。
犠牲者のほとんどは処刑場に運ばれてくる前に数週間から半年の間、プノンペン市内の収容所で想像を絶するような拷問を受けた後で殺されました。ツール・スレーンという収容所には家畜以下の拷問を受け、殺されていった犠牲者の写真や記録が詳細に展示されています。電気ショック、水攻め、さそりを用いたもの・・・ありとあらゆる拷問が行われました。理由は、実の所、よくわかりません。表向きはCIAのスパイ容疑、ということだったらしいのですが、同じように拷問され、殺された人の数が100万~300万と言われ、当時のカンボジアの人口が700万ですから、全く理解の外です。
ポル・ポトは主に男性、そしてインテリを抹殺しようとしました。当時男性の方が女性に比べ、教育水準が高く「西洋文明に毒されている」と考えられたからです。そして子供達を洗脳し、実際収容所で拷問したり処刑場で犠牲者を殺していたのは10代の少年達だったようです。収容所にはそうした少年達の写真が残っています。神戸の連続児童殺害事件では「なぜ中3が?」などと言われましたが、教育や育った環境如何では、わからないものです。ホラー映画などに洗脳され、殺したり殺されたりすることが当り前になってしまうと怖いですよね。
話を「キリング・フィールド」に戻すと、正直言って、僕は不思議と恐怖を感じませんでした。むしろ無数の遺骨に降り注ぐ明るい日差しや、小鳥のさえずりを聞いていると「辛かったでしょうね。でも終わって本当によかったですね。もう苦しまなくてもいいんですからね」という気持ちがただただ心の底から込み上げてくるばかりでした。
カンボジアでは20年前、働き盛りの男性が抹殺されました。そして今、人口の2%強がHIVに感染していると推定され、再び働き盛りの若い世代が危機に直面しています。先日プノンペンの赤線地帯に行って来ました。売買春をここで云々するつもりはありません。ただカンボジアの娼婦の約半数がHIVに感染していると言われる中、同地帯に連れて行ってくれた運転手によると、売り方も買い方もほとんどが「セイフ・セックス」をしていないとのことです。
そう言えばシスターも嘆いていました。ある娼婦が「私はHIVに感染しているからコンドームをつけないとだめ」と客に言ったら、「追加料金を払うからそのままでさせろ」と言われたそうです。頭の中が「!?!」になるでしょう?シスターの会も教育にはことの他力を入れていますが、追いつきません。「このままでは倫理を云々する以前にみんな死んでしまうわ」と途方に暮れています。
タイもカンボジアも人々は往々にして明るく、あったかくて、楽天的です。街はいつも元気です。カンボジアの人にしてもその悲劇的な歴史や極度の貧困を前にしても悲壮さを感じさせないのは、そうした気質によるところが大きいかもしれません。計画性に乏しく、とにかくその日を精一杯楽しく生きよう、という「哲学」。彼等がしばしば見せる「100万ドルの笑顔」はそれだけでこちらもとても幸せな気分にさせてくれます。僕はそうした彼等の生き方が大好きなんですが、ことHIV問題に関しては、そうしたその日暮らし的な気楽さがアダとなっている気がしてなりません。
エイズで亡くなる方の命も命なら、ポル・ポトに虐殺された犠牲者の命も命。人身売買で取り引きされる少年少女の命も命なら僕の命も命。本当に命の価値に差異はないんでしょうか。なんだか迷宮入りしてしまったような気がしています。
1997年12月20日
カンボジア・プノンペンにて、仲谷郁治
花畑通信へ投稿
Y.S.様
「しーずけーきー、こーのーよーるー」なんて歌はサイゴンのクリスマスには無縁です。イブの夜にはおびただしい人が市の中心部にあるカテドラル付近に集まってきます。そう、イメージとしてはちょうど初詣の明治神宮みたいな感じかもしれません。違いはと言えば、明治神宮付近が通行人で混雑するのに対し、こちらはオートバイで渋滞します。そうです。道が車ではなく、無数のオートバイで渋滞してしまうのです。あんなにすごい数のオートバイを僕は未だに見たことがありません。オートバイのけたたましい音と排気ガス、とにかく想像を絶する活気です。所違えばクリスマスイブも違うものですねえ。
Y.S.さんはどんなクリスマスでしたか?Mさんは今年も聖歌を流してもらえたのかなあ。僕はサイゴンのフランシスコ会の修道院で過ごさせてもらいました。深夜のミサは午後9時半から。その後で修道院のささやかなクリスマスパーティに参加させてもらいました。ベトナム風のお粥がふるまわれ、ミサ用ワインで乾杯です。何か日本の歌を歌えと言うので、クリスマスと全然関係ないけど慶應の「若き血」を歌いました。「日本語でクリスマスの歌を歌うとか、唱歌とか、もっと気の利いた歌があるでしょう?」と言われるかもしれませんが、突然のご指名で、歌詞なしで歌えるノリの良い歌が他に思い浮かばなかったんです。
外国人が訪れて歌を歌うなんてことは10年前には想像もつかなかったとのことです。以前は外国人と一言話しただけでも警察に呼ばれたそうです。現在でも表向きは同じことようですが、特に都市部では有名無実化しているみたいです。でもある司祭に「今もし政府に願いを何でも一つだけかなえてあげる、と言われたら何を願ますか?」と聞いたら「自由がほしい」と即座に答えていました。今でも司祭叙階には政府の許可が必要で(絶対数が決められている)、学校や病院経営など、大規模な活動はできません。公教要理自体が禁止されているそうで、ミサの説教で補う、という苦汁の策をとらざるを得ないようです。移転の自由もなく、若い修道士を留学させようにも、国外への旅はほとんど不可能のようです。今回の僕のような放浪の旅、などというのは論外で、何だか申し訳ない気分になりました。
ホーチミン(旧サイゴン:でもみんな未だにサイゴンと言っている)市にはベトナム戦争の博物館があります。いかにアメリカが惨いことをしたかを強調しており、多少偏っている気もしないでもないですが、ベトナム兵の死体2体の首をちょんぎって前に置き、笑いながらカメラにポーズをとっている4人の米兵の写真や、空襲や枯葉剤の犠牲となったベトナム人の見るに耐えない無惨な姿には言葉を失います。
戦争というと、日本では、特に僕達のような戦後の繁栄しか知らない世代にとっては何だか遠い過去の出来事のように思えますが、改めて狂気の沙汰としか思えません。いざ戦争が勃発してしまう時には双方の言い分があるのでしょうが、苦しむのはいつの時代も庶民や貧しい人です。カンボジアでアンコールワットを訪ねた時、ガイドの青年が「ここはフランスが、ここは日本が、そしてここはインドが修復してくれた。ところが当のカンボジアはお金で兵器を買ってばかり」と話してくれました。僕はてっきり彼のウィットと受け止め、苦笑いをしていたのですが、プノンペンでその話をシスターにすると「彼だけじゃない。彼等がそう語る時、どれほどの痛みを胸にそう話していると思う?」と問いかけられ、思わず自らの不謹慎を反省した次第です。カンボジアだって戦争さえなければ、隣のタイほどまでには成長していたでしょうに。
ただ、庶民の力って一方では偉大だなあ、とつくづく思います。カンボジアはポル・ポトに、ベトナムはフランスやアメリカに踏みにじられましたが(日本は米側だから同罪です)街の人々は飽くまでも、飽くまでも、とことん元気です。
1997年12月25日
ベトナム・サイゴンにて、仲谷郁治
花畑通信へ投稿
Y.S.様
元気ですか?ベトナムから帰ってきてからは再びタイを満喫しています。お正月はラムサイのフランシスコ会の施設で年を越しました。バンコクの伊勢丹で年越しそばと雑煮の材料を買い込み(高かった!)、椎茸や昆布、そして鰹ぶしを使い、生まれて初めて本格的なだしを作って皆に振る舞いました。出来映えは我ながら上々だったと自負しています。
その後はS教会のP神父が約1週間、タイに遊びに来たので観光名所めぐりをしたり、夜は僕のタイ人の友人らと食べて飲んでと大騒ぎでした。P神父はタイのナム・プリック(唐辛子のたれ)がえらく気に入ったようで、ラムサイのコックさんに作り方を教わった上、材料を買って行ったので、今度会ったらタイ風スパゲッティ・ペペロンチーノを作ってくれるのではないかと楽しみにしています。
P神父が帰るや否や、僕はこれまで行ったことのなかったタイ北部の古都チェンマイに行きました。タイ、と一言で行っても南国ムードに溢れる南部とラオス系の人が多く住む東北部、そして山が多くて緑が濃い、ちょっと日本を彷彿させる北部、と様々です。
この時期のチェンマイは、朝夕セーターが必要なほど冷え込みます。高度約2千5百メートルの山頂からまるで水墨画のように遠く連なる山々を眺めたり、古い寺院を訪ねたり。ある日はツアーに参加してチェンマイの前の首都、チェンライを経てメコン川をボートで遡り、ラオス、タイ、ミヤンマーの国境が接し、以前はケシの産地として世界に名を馳せたゴールデン・トアイアングルを見て回りました。メーサイというタイ・ミヤンマーの国境の町では約20分間だけ、ミヤンマー側に立ち寄りました。路上でタバコと一緒にハシシが無造作に売られているのにはちょっとびっくりしました。
チェンマイのあるお寺でタイのお坊さんと友達になりました。現在20歳で、何でも6歳の時に両親に連れられ仏門に入ったとのこと。勉強熱心で、終始片手に日本語とタイ語の辞書を持ちながら話していました。朝は5時すぎに起床、托鉢、瞑想、と日課をこなし、正午以降は食事はしない(水のみ)という生活をしているそうです。聞いていいものかどうか迷いながらも「これからもずっとお坊さんでいるの?」と尋ねたら、案外正直に「半々かなあ」と答えていました。もう一人のお坊さんは13歳の時に入門して現在19歳。現在大学受験の準備中で、大学を卒業したら還俗するそうです。「今の生活で一番いい事って何?」と聞いたらにっこり笑って「あんまりない」だって。なんだか拍子抜けしてしまいました。と言うより、タイではお坊さんというのは日本では想像できないほど尊敬されていて、とても近寄り難い存在だと思っていたのですが、案外人間的なのでホッとしたというのが正直なところかなあ。20歳と言えば世間ではお酒を飲んだりディスコで踊ったり、彼女とデートをしたり、と遊び盛りなわけですから物心つくや否やで入門して(させられて)しまった彼等は可愛そうといえば可愛そうです。とはいえ、そよ風に舞う風鈴の音がやさしく響くお寺の本堂で、揃って座禅を組んでいる若いお坊さんの後姿を見ているととても心が和んできます。もっとタイ語が話せたらもっともっといろいろと話しができたのにちょっと残念です。
タイ第2の都市でありながらバンコクとは全く違った趣のチェンマイ。日本でいうと京都みたいな感じでしょうか。
日本を離れてもうじき3カ月。そろそろいったん帰ろうかと思っています。バンコクの近場の海岸で最後の仕上げ(?)をしてからとりあえず東南アジア昼寝旅は終わりにして、できたら別のかたちで近々再び戻ってこれないかと思っています。
今年東京は大雪のようですが、大阪はどうですか?タイは暑くてビールがおいしいけど、ちょっとだけ、おでんに熱かんが恋しいこのごろです。
1998年1月19日
再び、バンコクにて 仲谷郁治
花畑通信へ投稿
Y.S.様
お元気ですか?花畑通信へは約2カ月ぶりの投稿です。
すでにご承知のように、昨年10月、約8年お世話になった共同通信社を退社、3カ月間の東南アジア昼寝旅に出かけ、現在タイはバンコクの北東約60キロのラムサイという村で黙想の家と末期エイズ患者のホスピスを経営するカトリック聖フランシスコ修道会の施設でボランテイアとして働いています。
約4万平米の敷地は池あり運河ありで、庭は芝生で覆われ、南国の樹木が立ち並んでいます。今タイは一年の中でも一番暑い季節ですが、朝夕は気温もやや下がり、熱帯地方ならではの鳥のさえずりで一日が始まります。
この施設「FRANCISCAN FOUNDATION OF THAILAND」は全くの非営利団体で、美しい自然の中でゆっくりと時を過ごしたい方々(誰でも大歓迎!)のためにバンガロー形式の宿泊施設を提供している他、敷地の奥にあるホスピスでは2人のシスターと数名のスタッフが常時約5人から10人の末期エイズ患者の方々の世話をしています。
ボランテイア、と言ってもタイ語ができるわけでも医療経験があるわけでもないので、たいしたことはしておらず、むしろ何ができるかを模索中、というのが実情です。
基本的には朝7時15分の朝の祈りで一日が始まり、朝食。午前中は主に自分の部屋でパソコンを使って、手紙や施設での活動を紹介する記事を書いています。幸いインターネットが使えるので、外部との情報のやりとりは東京にいるのとほぼ変わりません(突然電話が通じなくなることがままあることを除いては)。現在ビルマからシスターが二人研修に来ていて、ビルマでの医療活動の現状や、彼女達の滞在中の出来事などをアジア地域のフランシスコ会の会報に投稿すべく、記事を準備しているところです。
自分で記事を書く他にも、様々な広報活動を通して、エイズ問題に対する正しい知識、ひいてはエイズに限らず貧しい、或いは差別されたり、社会から遺棄された人達への理解を求めていくことができれば、と思っています。また、施設の運営資金は全額寄付金に頼っています。「金は天下のまわりもの」とはいえ、そうした活動を通して、少しでもこのラムサイに滞留してくれることを願っています。
ある日、見知らぬ人が不意に施設を訪れ、いろいろと質問して行ったそうです。そして最後に「ここは本当に美しい所ですね。でもどうしてこんな美しい所を余命間もないエイズ患者のために使うのですか」と一言。とても考えさせられる発言です。エイズに対する認識。命に対する考え方。
ここは本当に美しいところです。自然だけではありません。ホスピスに運ばれて来る患者さんは、末期エイズ患者であること、他に面倒をみてくれる人もお金もない人、などが条件となっています。家族がいても、親や兄弟にまで見放されてしまった人も少なくありません。そうした彼等にせめて、運命を悲観せず、「生まれたことは善かったんだ。命って本当は素晴しいんだ、少しでもそう感じてもらいたいー」そうした願いがここで働く人すべての胸の中にあります。
昼食後はシエスタ(昼寝)の時間です。連日温度が35度前後になり、湿度も高いので、全員休息をとり、健康管理に勤めます。飲みすぎもなく(!)、毎日抹茶をたてて飲んでいることもあってか、暑さにもめげず、おかげさまで体調は今までになく完璧です。
夕方はできるだけホスピスに顔を出すようにしていますが、とにかく言葉ができません。辞書を片手に、後は笑顔でごまかす(?)ほかないのです。「今日はどう?疲れてない?」などと話しかけてみます。でもうちとけてくると、はっきり言ってどっちが励まされているのか分からなくことがしょっちゅうです。不思議な出会いがそこにあります。
夕飯は午後7時。その前に施設の代表のジョン修道士とニュースをみたり、仕事の打ち合わせをしたり。食後の散歩の後は、一部の客室を除いて唯一冷房のある娯楽室でテレビを見たり、団らんしたりして一日が終わります。
まあ、ざっとこんな感じです。とにかくとても平和な、充実した毎日です。
1998年3月29日
タイ、ラムサイ村にて 仲谷郁治
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Y.S.様
いや~、しかしこれまでの人生で一番暑い日々をおくっています。しかも湿度が高いときてる。昼間は気温が35~37度の灼熱地獄。朝夕はそれでもやや下がるんですが、温度差からくるのでしょうか、今度は湿気で体がベトベトになります。例えば朝などは、夜、窓を開けるのを忘れて、翌朝お湯の残ったお風呂場に行くと、温度は高くないのに湿気だけはものすごいでしょう・・・ちょうどあの感じです。要するに一日中お風呂場で生活しているようなものです。施設では午後に昼寝をするようになっているのですが、はっきり言って部屋もベッドも「焼けて」しまっていて、とても眠れるようなものではありません。いくら日本の夏が暑いとはいえ、冷房の中での生活に慣れてしまっている身には少々こたえます。ほら、日本だと、お盆が過ぎ、八月も終わって、やれお彼岸だ、などと、来る秋を待ち焦がれながら暑さを我慢できるじゃないですか。ここにはそれがないんです。来る日も来る日も、そしてその次ぎの日も暑い。
もっとも、タイは今が一番暑い季節で、今年はちょうど今週だったのですが、ソンクラーンというお釈迦さまの誕生日を記念した水かけ祭が過ぎると、やや暑さも一段落するようです。ソンクラーンにタイにいたのはこれが初めてでしたが、若者や子供たちが家の前でバケツやホースを持って通りかかる車めがけて水を投げかけます。オートバイに乗った人もずぶぬれならば、窓の開いたバスめがけて一斉に水が浴びせられます。乗客はもちろん、びちょびちょです。もしこの時期にタイでバスに乗るのであれば、窓の閉まったエアコンバスに乗りましょう。僕も車で買い物に行った際、近所の子供達にバケツの水を浴びせられました。ところが、窓を閉めていたので「しめしめ」と思いながら施設に帰ってきたものの、しっかりシスター達が待ち構えていて、「あんたは背が高いから届かない。そこに直れ!」と言われ、ひるんだスキに、しっかり背中に氷水を流しこまれました。
タイの季節は正式には乾期、暑気、雨期に分かれますが、巷では「暑い時期、もっと暑い時期、そして最も暑い時期」だと言う人もいます。両方正解じゃないかと思います。
一年中暑くて、一部の地域を除いて、水も食べ物も豊富なタイでは、「食べる」ことが生活の中で重要な位置をしめています。バンコクなど、そこら中に食べ物の屋台が並んでいて、朝から晩まで、ひっきりなしに誰かが何かしらを食べています。もっともポピュラーな食べ物の一つが「クィーティヤウ」と呼ばれるスープ麺です。麺は米で作ったビーフン、スープは豚や鶏などから作った秘伝の味付けで、これは結構いけます。日本のラーメンと違うのは、出されたものに必ずと言っていいほど、調味料を加えてから食べます。まず赤唐辛子、そして魚からつくった醤油のナンプラー(何でも日本では秋田県にショツルという名で類似品があるそうです)、それほど辛くない赤唐辛子の入ったお酢、そしてキワメツケが、砂糖です。そうです。なんとタイではラーメンに砂糖を入れるのでした。さすがの僕も、ラーメン(名前が何であれ)に砂糖を入れることだけは未だに拒み続けています。
世界三大スープの一つとまで言われるトムヤムクンで知られるタイ料理。屋台に限らず、王室宮廷料理の流れを受け、甘味、酸味、辛み、そしてコクの絶妙なハーモニーから生まれる数々の品々は通をうならせます。
先日バンコクのある上品な五ツ星ホテルに泊まった時のことです。午後二時半すぎだったと思います。遅めの昼食を食べに行こうと思いエレベーターに乗ったところ、制服をきちんと着込み、いかにも一流ホテルらしい従業員の女性と一緒になりました。ドアが閉まって、しばし沈黙が流れた後、その従業員が突然「もうお昼はお済みですか」ととても丁寧な英語で聞くのです。別に顔見知りでもないし、普通ならお昼の時間はとっくに過ぎているし、「なんでそんなこと不意に聞くんだろう」と思いながらもとりあえずその場は「いや~、これからちょっと食べようかと思っているんですけど」と答えました。
これは後になって合点がいったことですが、どうもタイではごく自然な挨拶代わりに「もう食べた?」と聞く習慣があるらしいのです。そう聞かれたらだいたいは「チャーイ(ウン)もしくはカップ(男の場合のハイ)」と笑顔で返せばいいそうです。つまり日本ならば友達同士が「元気?」と声をかけ合うところを、こちらでは「もう食べた?」と聞くわけです。何だか可愛いでしょう?「元気?」と聞かれたらよほどでなければ「元気ない」とは言わずにとりあえず「まあー元気だよ」とか言うでしょう。同じことみたいです。
可愛いと言えば、タイではほとんどの場合、お互いニックネームで呼び合います。ニックネームに日本語の「さん」に相当する「クン」を呼び名の前につけます。そのニックネームの付け方が可愛いんです。動物の名前が結構多くて、例えば猫と言う意味の「ミヤーウ(これは鳴き声からきたものと思われます)」、ねずみと言う意味の「ヌーイ」、その他には「モット」(蟻)なんて言うのもあります。つまり、いきなり「蟻さんいます?」なんて調子で大真面目で聞くわけです。
タイ人が誰しも認めるタイ人気質を表わす単語に、「マイペンライ」「サバーイ・サバーイ」と「サヌック」があります。マイペンライは最も代表的なもので、「気にしない、どういたしまして」などの意味がありますが、面白いのは、例えばレストランでウエイトレスがお客の背広に染みをつけるとするでしょう。それでも「マイペンライ」。いえいえ、お客が言うのではありません。ウエイトレスが言うのです!?分かりますか?僕はまだ修行が足りないために、この言葉の奥の深さがいまだに理解できていません。
サバーイ・サバーイは英語でいうところの「take it easy」でしょう。「サヌック」は楽しむという意味ですが、これも意味深な言葉で、例えば会社で出張から帰って来て「どうだった?」と聞かれたら最初に口にするのは「サヌックだったよ」。間違っても「マイ・サヌック(楽しくない)」とは言わない方が良いそうです。楽しくない、と言うとよほど深刻な事態、と受け止められかねないようです。他に「バイ・ティョウ」(遊びに行く)「マー・ティョウ」(遊びに来る)という表現を頻繁に耳にしますが、意味や使われかたは日本語に訳した場合とほぼ同じようです。
もう一つ、「ナーム・ジャーイ」と言う言葉があります。これは僕のお気に入りの言葉の一つで、タイ人の間ではとても大切にされている言葉ですが、意味は「水の心」。先日、日本人の友達にこの話をしたら「なるほど、水のように澄んだ心ね」と言われてちょっと戸惑いました。と言うのは、タイはそこら中に川や運河が流れている「水の王国」ですが、その水はちっとも澄んでいないのです。北部山岳地帯などの一部を除くと、タイというのは真っ平なんです。従って川の流れも緩やかで、色は緑がかった黄土色のような、太陽の光を浴びるとちょっと金色の混じった感じがしないでもない、川というよりも池の色に近いかもしれません。(余談ですが、かの三島由紀夫はその作品「豊饒の海・暁の寺」の中で、タイ人の褐色の肌をして、この国の川の色のような、というような表現をしています)ポイントはどうもその緩やかな流れにあるようで、意味するところは「水のように穏やかな心」ということです。
現に国民性は非常に穏やかです。あの悪名高きバンコクの渋滞の中でさえ、怒鳴り声やクラクションの音を耳にすることはまずありません。辛抱強いというのか、諦めているというのか、怒りを表に出すことは甚だ卑しいこととされているせいなのか、何だかわかりませんが、とにかく水のようにしっとりとしていて、それでいてどこか愛らしい、そんな人が多くいる国です。
もっとも、生活するとなると特に日本とは勝手の違うことが多く、いつまでたっても通じたり通じなかったりの気まぐれな電話回線や、何故か一本の車道に三車線あって、これまた何故か真ん中の車線がどっちでもいいことになっていて(?)正面から突進して来る車に心臓が凍る思いをするとか、これは郊外での話ですが、集落の近くの野原や山があっちこっち火事になってるのに、通りすぎる車や通行人はおろか、村人も全く気にしている様子がない、とか・・・頭が「?!?!?!」となることをいちいち挙げたらきりがありません。
面白いのは、礼儀正しさや親切さ、そして誇りの高さなど、タイ人は日本人と似ているところは大変似ているんですが、違うところは正反対ということです。不思議と昔の日本に帰ったような、そんな郷愁を抱かせてくれる国かと思うと、「こんなこと日本ではありえないどころか、想像すらできない!!」なんていうのは、日常茶飯時のことです。
今回は僕がお世話になっている愛すべきタイという国について書きました。次回はラムサイのホスピスでの一日に焦点を当ててみようかと思っています。もっとも、結構その時その時の気まぐれで書いているので、どうなりますことやら。
ちなみに今回タイやタイ人について述べたことは全て僕の独断と偏見に基づくものなので、全ての責任は僕にあります。
日本は桜の季節も終わり、さわやかな初夏の訪れですね。こちらの暑さも後になればとてもいい思い出になるでしょう。
1998年4月17日
タイ、ラムサイ村にて、 仲谷郁治
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Y.S.様
ソンクラーンも終わり、タイはようやく雨期に入りつつあります。一雨降ると気温もやや下がり、過ごしやすくなります。最近はエルニーニョの影響で雨量が減っているようですが、それでも先日、嵐がラムサイ村一帯を通過した時はまさに「バケツをひっくり返したような」雨が降りました。
大地を駆け巡る湿った風。こだまする熱帯地方の鳥の鳴き声。地の果てまでも響き渡るような雷の音。無数の稲妻。大粒の雨に打たれて木々の緑は深みを増し、真っ赤なブーゲンピリアはますます色鮮やかに、灰色の空にくっきりと浮かび上がります。花鳥風月も所変わればこれほども違うものかと思いつつ、あらためて大自然の美しさの奥深さに感慨ひとしおです。修道院、一般客が黙想のために訪れるリトリートセンター、そして聖クララ・ホスピスから成るこの施設は、そんな豊かな南国の自然に囲まれています。
もっとも、自然の美しさに感心してばかりもいられないんです。この間の嵐の後も二日間、電気が止まってしまいました。施設には自家発電装置もあるのですが、何分旧式で、オーバーヒートを防ぐため、四時間おきに機械を止めなければなりません。電気がなくなると、電話もなくなります。井戸のポンプも止まるため、水もなくなります。ちなみに電話は電気と関係無くしょっちゅう不通になります。
それでも「しょ~がないねえ~。マイペンラ~イ!」とニッコリ笑って、あまり気にしないのがタイ流生活術のようです。
ただ、僕のようにプラプラと毎日を過ごしている分にはそれでもいいかもしれませんが、ホスピスは大変です。電気が無ければ天井のファンも回せません。いくらタイ人が生まれつき暑さに慣れているとはいえ、病床の患者さんにはこたえます。最も暑い時間帯にファンが回るよう配慮しつつ、食事の準備や洗濯などに支障無きよう、発電機を運転するスケジュールを組むのも一仕事です。
そのホスピスでは、午前六時、朝の祈りで看護婦のシスター達の新しい一日が始まります。同じころ、出勤した他のスタッフは栄養飲料を配りながら患者さんの様子を見に行きます。午前八時すぎ、修道院のキッチンから運ばれてきた食事を、ご飯の固さなど、それぞれの患者さんに合わせて盛り付け、一人で食べられない場合はスタッフが付き添います。食後の薬を配り終わったら、歯磨きを手伝ったり、体を拭いてあげたり、傷口などの手当やおむつの交換がテキパキと進められます。一連の作業が一服する午前十時ごろまで、ホスピス内はまるで戦場と化します。
こうした患者さんの日用のお世話が一日三回、ほぼ三度の食事に合わせてあります。でも案外重要なのが、そうしたルーティーン作業の合間の、一人一人の患者さんとの対話の時間です。あるシスターが次のように話してくれました。「エイズの患者さんは、他の多くの病人と違い、社会的な傷を負っています。患者さんは自らの死を悟っているケースが多いものの、中には家族や社会への怒りに溢れ、暴力的になることもあります。私たちの仕事はそうした患者さんに、『自分のことを大切に思う人もいるんだ』ということを知ってもらい、飽くまでも安らかな死を迎えることができるよう、全力を尽くすことです」。
受け入れの条件には、自分ではもちろん、誰も面倒をみてくれる人がいないこと、という項目があります。エイズに対する偏見などから、社会からも、そして家族からも拒絶された彼らが人生の旅路の最終地点で、せめて「生まれたことは善かった」と思ってもらえるよう、スタッフ一同、懸命に努力しているわけです。
運び来まれる患者さんはすでに医師から「六カ月以内」の宣告を受けており、ホスピスでは延命のための医療行為はしません。むしろ、いかに肉体的、精神的な苦しみを和らげ、自然な状態で死を迎えさせてあげることができるかに看護の重点が置かれます。
「最も充実感を感じる瞬間?患者さんが本当に安らかに目を閉じるのを見届けた時。それが私たちの努めだから」とシスターは語ります。でもやはり、日々死に行く患者さんを見つめ続けるのは辛いものです。たとえわずかな間でも、庭の散歩ができるようになるなど、少しでも患者さんが持ち直した時のシスターやスタッフの喜びようといったらありません。中には、ごくわずかですが、本当に元気になって他の施設などへ移る患者さんもいます。
「患者さんが私たちを導いてくれるのです。彼らが直面している痛みや苦しみはとてつもないのに、それをじっと耐えている。文句を言わず、ひたすら自分の運命を受け入れようとする姿に接する時、魂を揺さぶられます」と、そのシスターは言います。
聖クララ・ホスピスでは、看護婦の資格を持つシスター二人が基本的に二十四時間体制、またタイ人スタッフ三人が朝晩二交替のシフトを組み、世界保健機構(WHO)のガイドラインに基づく看護を行っています。また週二回、医療関係者の国際的ボランテイア団体、国境無き医師団(MSF)の医師らが往診に来ます。入院期間が平均三週間、と入れ替わりが激しいため、患者さんの数は一定しませんが、常時五人から十人ほどです。ホスピスを訪れる一般の方々からは「もっと多くの患者さんを受け入れられないのか」とよく聞かれます。でも患者さん一人一人への徹底したケアを提供するためには、残念ながら現在のスタッフ数では今の人数が精一杯なのです。
エイズ発症により免疫機能が極端に低下した患者さんは、あらゆる病気にかかりやすくなります。結核や肺炎が多くみられ、ヘルペスなどの皮膚病や肝機能障害、視力の低下、半身不随、ウイルスが脳に達している際には、寝たきりになったり、会話などのコミュニケーションに支障が出るなど、症状は様々です。
ホスピス内の事務所には彼女らが属する修道会の創立者、聖ビンセンシオ・ア・パウロの言葉が残されています。「親愛なる姉妹のみなさん、愛がどれほど重荷か、ということにそのうち気付くでしょう・・・パンやスープを与えるだけなら金持ちでもできます。あなた方は貧しい人への小さな奉仕者なのです。貧しい人はあなた方の主人です。このこともそのうち分かるでしょう。彼らが醜ければ醜いほど、汚ければ汚いほど、不正で、俗悪であればあるほど、あなた方は愛を示さねばなりません。何故ならあなた方の愛、まさにその愛のみによって、貧しい人はパンを差し出すそのあなた方を赦してくれるからです」。
欧米などの先進諸国では、HIVを一定期間抑制するなど、ある程度、効果的な薬が開発、投与されるようになってきました。「アメリカならどこの病院でも使っているような薬がここにはない。理由は簡単。値段が高いこと」。長年、エイズ患者も含め、多くの病人の世話をしてきた、施設代表のジョン修道士がつぶやきました。僕が「つまりお金さえあれば、ここにいる患者さんの多くもとりあえずは死ななくていいわけ?」と聞くと、しばらくうつむいて考えた後「まあ、そういうことかなあ」と寂しそうでした。
ホスピスの運営費用は、食事、医薬品、医療機具、人件費、施設メンテナンス費用など、年間計約六百万円(一日あたり約一万六千円)です。約四割をタイ政府からの補助金に頼っていますが、残りは全て一般からの寄付です。一九九三年に設立されて以来、約三百人が運び込まれ、他の施設などへ転出後、死亡した患者さんを除くと、二百人以上が同ホスピス内で亡くなりました(九七年末現在)。平均年齢は三十二歳という若さです。
僕もこれまでエイズという名は新聞やテレビのニュースから得られる知識しかありませんでしたが、この施設へ来て本当に色々なことを考えさせられます。エイズ問題は現代の社会情勢、社会問題の鏡のような気がします。生死といった根本的なテーマから、富と貧しさ、家族や友情、そして愛と性。理性と本能、理解と偏見、プラグマティズムと形式主義、商業主義や政治的駆け引きなど、あげたらきりがありません。
先日、インドが核実験を行ったとの報道がテレビで流れるその傍らを、息を引き取った患者さんの遺体が乗った担架がひっそりと施設の外へと運ばれて行きました。照りつける太陽とぬけるような青い空の下、真っ赤なブーゲンビリアの咲く小道を、カラカラとゆっくり音をたてながら。
1998年5月19日
ラムサイにて、仲谷郁治
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Y.S.様
もう暑い、暑いと書くのが嫌になってきましたが、実際暑いものは仕方ありません。でも五月は日本も暑かったみたいですね。ニュースを見ていると、「七月並みの暑さ!」「30度以上の猛暑!」なんて活字が目につきましたが、こっちで「あしたの予想気温は30度」なんてことになったら、みんなあわてて長袖を出すことでしょう。
先月末、東京は三軒茶屋教会でチャリテイ・コンサートが開かれ、今回は収益の一部をラムサイのホスピスにも寄付していただけるとのことだったので、会場に張り出されるポスター用などに、以前仕事で使っていたカメラの埃をはたき、スタッフの働いているところを撮影したり、インタビューしたりで、久々に取材っぽいことをしました。
おかげさまで盛況だったようで、ホスピスのスタッフはもちろん、修道院の中でも皆とても喜んでいます。寄付ももちろんですが、まだまだ「ごく一部の人の病」ととらえられがちなエイズ問題が少しでも身近なものとなってもらえたら一層嬉しいことです。
クリスチャンの場合、エイズ問題は自分の信仰を顧みる良い機会になると思います。真正面から取り組むと、単に「貧しい人」「見捨てられた人」を助けよう、ではすまないからです。麻薬中毒、同性愛、売買春といった問題やこれらへの社会の「常識」とも向き合わなければいけません。また、先日CNNが「急増する50歳以上の感染者」という特集を組んでいました。僕も最初は「え?」って感じでしたが、確かに50歳以上だからと言って感染しない理由はないのです。日本でも一時、高齢者の「恋愛」が話題になりませんでしたっけ。怖いのは「あれは、若い人の病気」という先入観だそうです。
HIVウイルスが発見されて、もう十五年以上経ちますが、いまだにアメリカのキリスト教社会も、いざとなると伝統的価値観と現実との間で相当の葛藤があるようです。共同にいたころ、耳にタコができるくらいよく聞いたことばに「まず現場」というのがありました。どうしても教科書どおりにはいかないのが現場です。でも現場での直感にはどんな教科書よりも大きな説得力があります。カンボジアで働くシスターの「現場」からの切実な声が思い起こされます。「何とかしなきゃ、道徳や倫理を云々する前にみんな死んでしまうわ」。死ぬか生きるかの瀬戸際となると「今、何が一番必要なのか」それが待ったなしで問われます。
一方、クリスチャンではない方々にとってこの問題は「イエスを生きたい」としている人の中に、どのようなかたちで自分たちの信仰を実現しようとしている人がいるかを知る良い機会ともなると思います。いわゆる慈善事業とも違います。また、日本人が一般的な意味で使っている「宗教」とは全く違う何かを目にするのではないでしょうか。
それにしても、つい先日、大学時代の親友から「やっぱり僕にはまだわからないよな、イクジがそこにいたい理由がね」と言われてしまいました。「僕にもよくわからん」と答えました。だって本当なんですから。でもさすがに長いつきあいだけあって、するどい一言でした。
本当のこと言うと、結構モンモンとする時もあるんです。まず言葉。これが最大の壁です。患者さんと話ができません。どこかが痛いのかと思ってシスターを呼びにいくと、案外水が飲みたいだけだったりします。タイに来たわけですから、ある程度は覚悟していたにせよ、予想以上に辛いものがあるかもしれません。HIV感染者やエイズの患者さんと接する上で一番大切なことは「普通に接すること」だそうです。「よっ、どうだい?調子は?そっか、頭が痛いんだよな。どれ、あっ、熱もあるね。うん、うん、とにかく一緒に頑張ろうぜ!」なんて軽い感じで話せると嬉しいんですけどね。
そうかと言って医療知識があるわけではないので、「ここが痛い」なんて言われても、どうしていいかわからないし。病院なら「大丈夫。きっと良くなるから」なんて言えても、ホスピスでそういう言い方はちょっと変だし・・・。
そんな時、「僕はいったい何のためにここにいるんだろう」なんて考えたりするんです。するとホスピスに行くのも気が重くなります。「どうせ行っても何かしてあげられるわけじゃないし・・・」なんて。でもそういう時こそ、いざ行ってみると、なんか元気になって帰って来たりするんです。あれは不思議です。別に特別なことがあるわけでもないのに。ちょっと挨拶して、一言二言、言葉や笑顔を交して来るだけなのに。
たぶん・・・たぶん、なんですが、彼らが最後まで闘っているからじゃないかと思うんです。感染していると分かってから、どんなに辛い日々を送ったことでしょう。だって事実上の死刑宣告でしょう?上告も恩赦も再審もないんです(Mさんごめんなさい)。僕はエイズの患者さんがあんなに肉体的に苦しむものだとは思ってもみませんでした。しかも、どっか一つじゃないんです。あっちも、こっちも。痛かったり、苦しいところだらけなんです。精神的にだって痩せて変わりはてた自分の姿は相当ショックなはずです。俗に言う「ビョーキ」になったんだ、などということから来る自責感、孤独感、他人の目を気にせざるを得ない自分。辛いなんてもんじゃないと思います。普通の病とちょっと違うわけです。
ポム(31歳)は僕が来た時はまだ元気で(と言っても歩けるという意味)、隣で寝ている半身不髄のジャーイ(仮名/26~27歳だったと思う。すでに死亡)の面倒をよく見ていました。ジャーイは足がまっすぐに伸びないので、紐でベッドに固定していたんですが、寝返りを打つとまた曲がってしまって、これが痙攣し始めたりで、すごく痛いみたいなんです。その都度、ポムがベッドを下りて足をもう一度固定してあげたり、夜食には庭の池から採って来たハーブ入りのラーメンを作ってあげたり。陽気なジャーイとちょっとシャイなポムは結構いいコンビでした。
そんな時、別棟の二人部屋に、全身の皮膚が荒れ、痒いために体中をかきむしり、血だらけになってしまう患者さんが運び込まれました。かかせないように手足をベッドに縛っておくのですが、しばらくするとみごとにほぐしてしまい、再びかきはじめます。
話を聞いたポムがボランテイアを名乗り出ました。同じ部屋に移って、自分が面倒をみると言うのです。ちなみに、ホスピスに運び込まれる患者さんは、少なくとも一度は「あと6カ月」と医師が診断しているんです。ポムも来た時は結核を煩っていました。その彼が今度は同じく「死に行く同胞」を支えてたんです。話を聞いた時には涙が出そうになりました。
ポムの看病が効を奏してか、患者さんの皮膚病は、少しづつですが、緩和しているようです。ところが今度はポム自身が激しい頭痛を訴えるようになりました。ある夜など、あまりの辛さにシスターを夜中の3時に起こしに行ったようです。
元の部屋に戻ったポムは激しい頭痛が止まず、一方、頭痛薬の副作用で、胃のものを戻してしまうなど、大変な苦しみようです。シスターによると、感染症から来る頭痛だとのことです。
誰でも頭痛は経験あると思います。それが幾日も幾日も、そして時には39度以上の熱にうなされながら・・・。何でこんな「イイヤツ」がこれほど苦しまなければならないの?そんなことが頭を離れません。もし、アメリカで普及しはじめた「カクテル」と呼ばれる薬があれば、ポムだって、あのマジック・ジョンソンがテレビで言ってたみたいに「いや~、トレーニングを強化したせいか、体つきがますますゴッツくなっちゃってさ」なんて言えたかもしれないのに。「カクテル」は月に十万円以上するそうです。タイの庶民にとって、それは日本で月百万円、というのに等しいはずです。
まあ、それにしても、彼らを見ていると命のはかなさや、僕たちの無力さを、イヤというほど見せつけられながらも、そんな、苦しみながら死にゆく彼らに、逆に日々「勇気」づけられるというのも何だか不思議な気がします。
たぶん、だからまだここにいたいんだと思います。
1998年6月5日
ラムサイにて、仲谷郁治
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Y.S.様
日本への一時帰国はあっという間でした。連日連夜、まあよく飲んだものだと我ながら感心しています。やっぱり日本酒は美味いですね。う~ん、考えただけでもまた飲みたくなってきた。僕は湿度と日本酒って関係があると思うんですが、タイは湿気があるのでお酒がおいしい。今は雨期。雷を肴に、夕立ちを眺めながら、キリッと冷えた冷酒をちびりちびり・・・なんていいでしょ~う?
でも毎日そんな生活をしてるわけじゃないですよ。多くても月に一度か二度かなあ。ラムサイを「脱走」してバンコクにおいしい冷酒を飲みに行くのは。お気に入りのイキツケがあって、ここは魚がいいんです。日本直送のものもあるんですが、そういうのは所詮、冷凍。それより近海もの。いか、たい、あじ、などは刺身が最高で、いとよりの塩焼きやさばの照焼がなかなかのものです。タイ人の間ではさばの照焼が超人気メニューです。もっともタイでは昔はさばなんて食べなかったらしく、その名もプラー(魚)・サバ。
お店にはオクラの酢の物から、ひじきの煮つけ、これは日本産ですが、みょうがのおひたし、なんてものまであります。升には樽酒がなみなみと注がれ、角にはちゃんと塩が盛ってあったりして・・・言うことなしです。(僕の嬉しそうな顔が目に浮かぶでしょう?)
さぞかし飲んだくれの生活をエンジョイしているかに聞こえるかもしれませんが、その実、最近は必ずしもそうでもないんです。むしろこのところちょっと滅入り気味で、いまひとつ冴えません。
一番の原因は・・・この間書いたポムなんです。僕が日本から戻るまではとてももたないだろうと思ってたんですが、幸か不幸か・・・まだだったんです。幸か不幸か、などと不謹慎な!とお叱りを受けるかもしれませんが、彼の苦しみかたを見たらおわかりいただけると思います。シスターだって、僕が日本へ出発する時には「あと数日だろうね」と言っていたんですが。
彼には何人もの兄弟がいるようですが、ほとんどお見舞いにも来ません。少なくとも僕は見たことさえありません。ここにいる患者さんは皆、家族に会いたがっています。でも、多くの場合、死を目前にしても、親兄弟にまで拒まれているんです。何でなんでしょうね。
比較すること自体、なんだかはばかられる気がしますが、それに比べると僕は本当に恵まれています。こうしてラムサイで過ごせるのも、数多の「友人」に加え、両親や弟達が、不安や、本当は言いたいことがたくさんあるはずなのを言わずに、じっと見守っていてくれているからできるんだ、ということを最近つくづく痛感します。
そのポム、もう二週間ほど、何も食べていないんですが、意識はかなりはっきりしていて、この期に及んでもなお、周囲への気遣いが止みません。研修でシンガポールから来ている若いフランシスコ会士も「体を拭く際も、できる限り自分で体を動かしたり、周囲に迷惑をかけまいとしているのが痛いほどわかる」と話していました。
左の目はもう見えず、左の耳ももう聞こえなくて、力が無くて咳をするのも苦労しているほどなのに、僕が「おい!ポム!ヤイ(僕のタイ名)だよ!」といってお腹をくすぐると、肉のそげ落ちてしまった頬に安らかな、それでいてどこか愛敬のある微笑みを浮かべてくれます。
もう見ているのが辛くて。「治らないのなら、せめて早く楽にしてあげてくれ!」「いつまでこんないいヤツを苦しめるんだ!」そんな、祈りとも、嘆きともつかぬ思いを抱きながらの毎日が続きます。時に、エイズによる死は拷問を思わせます。少しずつ、少しずつ、ここが駄目になって、あそこも駄目になって・・・
*****
一方、「死は時としてとても安らかなものです」、患者さんが亡くなる際の様子を以前そんなふうにシスターが語っていたことも、最近少しずつ分かって来た気がします。あまりの苦しみ方に「今日か明日か」などと思う時は、案外それからだいぶ経ってから亡くなることが多いようです。もっともこれはラムサイの施設がホスピスという性格上、延命治療などはせず、いわゆる「自然死」に近いかたちで亡くなるケースが多いことも一因かもしれませんが。
ろうそくが燃え尽きて火が消える様子がしばしば例えとして用いられますが、ここでは本当にそんな感じです。ほとんどの患者さんが最期まで意識があります。ドラマなどでは最後に「ガクッ」なんてふうに演じられますが、実際はそうではなくて、呼吸間隔が次第に開いて行き、「スーッ」と消え行く様に亡くなります。(もっとも世の中にはそうではないケースもたくさんあるでしょうが)。
臨終間際の患者さんが呼吸する度に、シスターが時計をいちいち見るので不思議に思っていたら、それは、しばらくしてみないとそれが最後の息だったかどうかわからないからだったんです。つまり、いつ死んだかわからないくらい、最期は安らかです。それまでの苦しみがあたかも夢だったかのように。
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「COMPASSION」という言葉があります。辞書には「慈悲深い、温情的な、情状を酌量した」などとなっていますが、元来の意味は「COM」が「共に」そして「 PASSION」は「苦しみ」です。キリスト教精神の根本的要素の一つですよね。
これは慰めたり、励ましたり、というより、むしろズバリ、痛みを共有し合うことだと思うんですが、これがどっこい、とても難しくて。ましてやホスピスの患者さんと痛みを分かち合うとなると、どうしたらよいものか途方に暮れます。
そんな時、ふと思い出したことがありました。昔、弟がまだ小さい時、転んだりして泣き出すと、母がよく「痛いね、痛いね」と、言って介抱してたんです。「だまりなさい!」でも、「痛くなんかありません!」でもなくて、まず最初の言葉が「痛い、痛い」という訴えをそのまま受け入れるものでした。今になって、これが実はすごく偉大なことだったのではないかと思い始めたのです。
患者さんのところへ行くと、僕が医者でもなく、またタイ語ができない事など百も承知なはずなのに「ここが痛い、呼吸が苦しい」と訴えられます。初めは「何とかしなきゃ」といった感じで、でも自分には何もできないから、とにかくシスターのところへ走って行く、というのが常でした。シスターとて、できることはすでにしているわけで、今さらどうすることもできません。
最近は母のことを思い出し、痛みを訴えられた際には「そうですね。そうですね。痛いですよね」と、うなずいたり、手を握ったりしながら、また本当に痛いだろうなあ、と思いながら話を聞くよう努めるようになりました。
悩みを打ち明けられたり、相談を受けたりすると、つい励ますつもりが必要以上に「アドバイス」を与えてしまうことってありますよね。「苦しいよね、大変だよね」とうなずいてくれるだけでいいのに。まあ教会の人の特にありがちなんですが、すぐ「(神様の)み旨」って言うでしょう?あれはちょっと苦手です。苦しい最中に「その苦しみには意味があるんだ」なんて言われても複雑な気持ちになります。別に自分の苦しみを分析してほしいわけでもなんでもないのに。どうしてもっと素直に「辛いよね。でも僕は君の見方だよ。一緒にがんばろうよ」って言えないんでしょう。これは自戒の念も含めてですが・・・。
「お世話」というのは一つ間違えば、単なる「善意の押し売り」になってしまうでしょう?「誰かのために」と言った自分を中心とした姿勢ではなく、大切なのはどこまで「ともに」という、つまり本当の意味で「COMPASSION」を実践できるかなのかもしれませんね。最初から見返りを期待したり、「好意」の名のもとに、自分を押し付けているばかりで相手の気持ちになって考えることがなければ、それは「COMPASSION」にならないですものね。
あー。それにしてもちょっと中弛み気味かなあ。今一つパワーが沸きません。日本にいる時には「こんな時にはウマイものでも食って」なんて、即、街に駆り出しておいしいお酒で喉を潤したものですが、ここではそういうわけにもいかないし・・・。ラムサイの月でも眺めながら、この間日本から持って来たたくわんでも切って、ジョンに一杯付き合ってもらうとしようかなあ~。
1998年7月5日
いつまでたってもシャバっ気の抜けない 仲谷郁治より
(花畑通信へ投稿)
追加
7月6日、昼すぎ、ポムは息を引き取りました。31歳でした。
この日の朝は前日までの曇り空と打って変わって素晴しい天気でした。ところがしばらくして、けたたましい雷の音とともに、激しい雨が降り始めました。
「ポムが死んだー」。ホスピスでお昼の準備を手伝っていたスタッフがずぶ濡れになって修道院に駆け込んで来ました。
僕もホスピスへ向かいました。ポムは目をうっすらと開けて、彼らしい、ちょっととぼけたような表情で眠っています。「お疲れさま」。僕は他に言葉が見当たらなくて、そうつぶやきました。「本当に、お疲れさま」。
また一人、ラムサイの友達が去ってしまいました。でもようやく彼に平和が訪れました。ようやく、彼は休めます。もう苦しまなくてもいいのです。
短いお別れを言って、外へ出ると、もう雨は止んでいました。修道院へもどる小道のまわりには雨に濡れた草木がいっそう緑濃く、小鳥のさえずりが響き渡っていました。ポムがベッドの上でのたうちまわって苦しんでいたとき、思わず手を取り口ずさんだ子守歌が頭をよぎりました。「ねーんねーん、ころーりよ、おこーろりよ・・・」。
ポムのためにお祈り下さった皆様、ありがとうございました。
病は彼の肉体を死に至らせたかもしれませんが、魂をなきものにすることはできませんでした(マタイ10:28)。
仲谷郁治
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Y.S.様
日本もようやく梅雨が明けて夏本番のようですね。夏と言えばビール。ビールと言えば枝豆。プロ野球放送がないのが残念ですが、枝豆はここでも地元のスーパーで、塩ゆでしたものを売っています。その名も「ジャパニーズ・ビーンズ」。嬉しいことに1キロたったの130円弱。氷を敷いた畳一枚ほどの台の上に山のように積まれています。ところが、まだそれほど普及してないせいか、「何これ」「中国人の食べ物?」「違う違う、日本の豆だってよ」「へー、結構おいしいじゃない」なんてふうにおっかなびっくり試食している人をよく見かけます。
最近、楽しかったことと言えば、20歳前後のレデンプトール会の志願者(全員タイ人)計8人が約2週間、ホスピスに交代で研修に来ていたことです。死体を見るのが初めてだったりして、最初はかなりショックを受けていたようですが、とにかく元気がいいのなんのって。休憩時間になると修道院へ戻って来るんですが、僕が図書室でパソコンに向かっていると「何してるのお!?」ってな感じで次から次へと隣に座ってはあれこれ話しかけてきます。おかげで、彼等がいた間は、なあ~んにもできませんでした。そもそもタイ人は往々にして人なつっこい上に、若さが加わって、ジョンと二人で「まるで小犬に囲まれてるみたいだね」と言って笑っていました。
このところ、タイ国内はもちろん、アメリカ、シンガポール、ベトナム、日本、韓国と、とにかく人の出入りが激しくて、リトリートセンターの客室もフル回転でした。修道院とホスピスの財務は別々で、修道院の経費(僕の食費はこっち!)はリトリートセンターの客室使用料で賄っているので、内心少しホッとしているところです。どうしてもホスピスの運営が優先となり、リトリートセンターのマーケティングは後回しになりがちなので、僕が来たころなど、素敵なバンガロー形式の客室がいくつもあるのに、ず~っと閑古鳥が鳴いていて、正直「大丈夫なのかなあ~」と心配したほどでした。
ホスピスは相変わらずです。ポムが亡くなってから、僕の心に花を添えて(?)くれるのがアン(仮名/19)です。礼儀正しく、まるでおとぎ話の中から飛び出て来たように純粋な彼女。もともと東北部出身で、ここへ来てすでに5ヵ月になりますが、14歳の時に工場へ売られ、その際、事故で左の人さし指と中指を半分ほど失い、後は国内を点々と売られました。家族は、お姉さんがどこかにいるはずなのですが、よく分かりません。
アンは僕の顔を見る度にあれが食べたいこれが食べたいと言います。ついこの間まではインスタントラーメンでした。今はチョコレート。もう頬には肉など全く残っていないのですが、大好きなチョコレートを食べた時の嬉しそうな笑顔は100万ドル級です。少しずつ、少しずつ、天国への階段を上っていますが、彼女はまだ死にたくありません。だってまだまだ食べたいものが一杯あるんですから。
ここにはいろいろな死があります。一目でいいからもう一度、彼氏に会いたくて炎天下を5キロも歩いてホスピスを「脱走」、ヒッチハイクしてバンコクまでたどり着いたものの、追い返されてしまい、2、3日後、ここで息を引き取った美男子のジョー(仮名/23)。ホスピスの活動を写真撮影していたら「わたしも撮って!!」と言って、お色気ポーズ。数日後、亡くなったアネゴ肌のラック(仮名/24)。泣きべそをかきながら「家に帰りたいよ~」と訴えていたら、翌日、天国に召されてしまった60代半ばのゴーサン(仮名)。
僕が敬愛して止まないアッシジの聖フランシスコは病床で、「死」を「お姉さん!」とか「妹よ!」と呼んで亡くなりました。「死がお姉さんねえ~。なんだか分かったような分からないような・・・」と言う僕に、ジョンは「姉妹って・・・避けようとするものじゃなくて、抱き締めるものだよね」とポツリ。
「死は抱き締めるものー」。まだ僕はそこまで死をカジュアルに受け入れられるには至っていませんが、誰しも将来のことで唯一確実なことは死ぬことですからね。街で、人ごみの中から周囲を見渡して、「100年後には自分も含め、この人達全員死んでいるんだよな」なんて、当り前のことながら、あらためて考えると、何だかこわいような、不思議なような・・・。命って、ミステリアスですね。
茶道には一期一会、という言葉があります。アンに「また明日ね」と言うと、長いまつげの大きな目を開いて、にっこりと笑ってくれます。「明日もこの笑顔を見ることができるのかなあ。でも今日、会えて本当によかった」そんなことを思いながらホスピスをあとにする今日このごろです。
1998年8月11日
(ホスピスの名前の由来の)聖クララの祝日に 仲谷郁治
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Y.S.様、
それにしても日本はイヤな話題ばかりのようですね。一連の毒物混入事件、異常気象に自然災害、戦後最大級の倒産・・・。はたまた突然、隣の国からミサイルが飛んで来たみたいだし。毎朝インターネットでA新聞社のホームページをチェックするのが日課になっているんですが、それだけ見ているとなんだか「世紀末」そのもの、って感じですね。きっとMさんも塀の中で同じような思いを抱きながらモンモンとした日々をおくっていることでしょう。
ここ(ラムサイ)も問題は一杯ありますが、レベルが違うというか、別世界というか。以前、ここでの一日は朝の祈りで始まって~、なんて書きましたが(それはそれで本当ですが)実際は「今日は電気ある?」ってな感じで始まります。特に雨期に入ってからというもの・・・。電気があって、電話も通じていようものなら、ジョンと二人で「すごいね~!嬉しいねえ~!」。ま、そんなのも束の間の喜びですが・・・。
とにかく毎日、何かが壊れてます。こないだなんて一日に十回くらい停電がありました(もう数えてない)。電話なんてブツブツ切れまくるから、一つの用件を済ませるのに最低3回はかけなおさないといけません。いっそずーっと停電していれば、発電機を回すんですが、その発電機だって四、五時間に一度は止めて冷やさないといけないでしょ。と同時に懐中電灯でタンク内の燃料の残り具合を見ながら、手動ポンプでエッチラ、コッチラと脇のドラム缶から油を汲み入れるわけです。
ここの施設の電気は三系統あって、それがまったくバラバラに落ちるものだから、何がなんだかわけわからなくなります。全部きれいに落ちてくれないとポンプが狂って、仮に電気が復旧してもちゃんと作動しなくなる(水が止まる)んですが、何故そうなるのか、誰も原因がつかめません。僕が普段パソコン通信などで使っている図書室の電話は何故か、雨が降ると外線だけ(!)が通じなくなります。
あれこれ試して、少しでも直るとニッコリ笑って「ノープロブレム!!」。だいたいすぐまたおかしくなるんですが、その繰り返し。最初はいちいち腹をたてていたものの(今でもムッとすることはありますが)、もう、なんか、仕方がない、ってやつですね。まあ、良し悪しがあるのかもしれませんが、僕が日本で生活していた環境って、何か問題があれば、まず原因を特定して、解決できるかどうかいろいろと検討して・・・とにかく解決へ向けて努力するじゃないですか。なんだかここにいると「なんとかしよう」と思って問題に取り組むことって「罪」なんじゃないかと思うくらい、万事がレセ・フェール(laissez-fair)なんです。
でも案外見方を変えると彼等の生き方にも一理ある、いや、一理あるどころか、彼等の方が下手したら理にかなっているのかもしれません。日本にいると、人生にせよ、社会システムにせよ、万事「コントロール」できるような「錯覚」に陥りますが、実際には、限界があるわけですからね。思い通りにいかずにストレスをためて頭の毛が薄くなるよりは、「ま、そんなもんよ」って感じで「いつかは何とかなるでしょ」と気楽に構えたほうがいいのかもしれません。そういう意味ではタイの方々は「人生の達人」と言わざるを得ませんね。
車を運転すると性格が出る、なんて言いますよね。僕はかねがねこの国では絶対自動車の運転はしない(できない!)と心に決めていたんですが、今は仕事などでそういうわけにはいきません。でも最初はまさに「カオス」だと思われたこちらの交通事情も、いざ中に入ってしまうと、結構溶け込める、いや、下手すると心地よい(?!)ものだということがわかりました。
一応、車線、信号などの交通ルールはあるんですが、要は「行ければ行く。行けなければ行かない。曲がれれば、曲がる。曲がれなければ、曲がらない」と言った感じで、極めて単純かつ「合理的」なんです。日本では「ここは右折禁止だから、絶対に右折車は無い」などという、規範に基づく「前提」を「信じて」運転しますが、ここではそんなの通用しません。反対車線だって行ければ行っちゃう。一応、ハザードつけて。怖い?いえ、そんなことはありませんよ。「行けなければ、行かない」んですから。ちなみに信号のない交差点などでハザードをつけて通過したりしますが、「わるいけど俺はまっすぐ行くゼ」という意味のようです。
ダウンタウンへ行く際、「建設中の」ハイウエイをよく使います。これがなんと、出口を逆走して入って行きます(片側しかできていない)。侵入禁止のサインなどおかまいなし。最初、何も知らずにスタッフの運転で行った時にはさすがにド肝を抜かれましたが、「赤信号、みんなで渡れば・・・」の世界ですね。
まさにアジア版ゴーイング・マイウエイの真髄を日々体験しています。
*****
ホスピスの話を一つ。先日ある患者さんが亡くなくなって、たまたま人手が足りなかったので手伝いに行きました。遺体をストレッチャーで運び出す際、同じ部屋の別の患者さんの前を通ったら、その患者さん、ベッドの上にきちんと座って、手を合わせ、大きな声で「チョックディー、ナ」と何度も声をかけていました。「チョックディー」とは英語で言えば「グッド・ラック」です。
亡くなった方の遺体に向かって「グッド・ラック」という感覚。最初はちょっと違和感がありましたが、そのうち、なんだかとてもいい言葉のように思えてきました。「成仏してね」でも「天国へ行ってね」でもなく、「グッド・ラック」。最後の。とても人間味のあるお別れの言葉だと思いました。
余談ですが、その声をかけていた患者さん、なんとムショで生活すること20年、最近、酔っ払って線路で寝ていたら電車に轢かれて左足を失ってしまったというツワモノです。全身入れ墨だらけで、最初はギョッとしないでもありませんでしたが、なんともいいオヤジさんで、とても可愛がってもらっています。未確認情報では、その人、以前ヒットマン(殺し屋)だったとか。ヒットマンがシャバに出てきて酔っ払って電車に轢かれる・・・その人がここのホスピスにいるかもしれないわけですから、本当ならば、いろいろな人生があるものです。
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ラムサイに来て半年が経ちました。ジョンとの当初の話では「最低半年、1年めど」ということでだったので、そろそろ我が身の今後の身の振り方も考え始めなければなりません。また一方で、初心にかえり、もう一度、自分が何故ここにいるのかを考え、一日一日を大切にしていきたいと思っています。
それにしてもラムサイへ居候する以前の旅行中の出来事なども含めて、タイやタイの方々には本当に教わることが多いです。日本で生まれ、アメリカに育ち、タイに鍛えられた、といったところでしょうか。
ある本ではタイをして「美と醜、平和と戦い、静寂と喧騒、安価と高価、強気と弱気、楽しさと悲しさが同時に存在する不思議な国」と表現していましたが、結構うなずけると思います。ちょうどタイ料理そのもののような気もします。辛くて、塩がきいてる一方で、甘くて、酸っぱい。
ま、要するに徹底的に「ヒューマン」なんですね。良きにつけ、悪しきにつけ。
1998年9月8日
ラムサイにて、仲谷郁治
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Y.S.様
今年の日本は暑かったり、寒かったり、変な天気が続いているようですね。でもさすがに秋はもうそこまで来ているのでしょう?タイも十一月から一月にかけては、朝晩は肌寒いくらい涼しく、一年中で一番過ごしやすい季節となります。今も、あの蒸し風呂そのものだった四、五月の暑期とは異なり、夕立ちの後は「ここは軽井沢?」と思わせるほど清々しい空気が漂います。
去る十月四日はラムサイの施設を運営している小さき兄弟会の創設者、聖フランシスコの祝日だったので、二、三百人のお客さんを招き、ミサなど盛大なお祝いがありました。タイ東北部のコラートからは、数十人の学生が聖歌隊として参加、この国の伝統楽器を用いた聖歌の演奏は、悠々として、とても素晴しいものでした。
昨日、一人のスリランカ人の患者さんが亡くなりました。この三十台半ばのTさん、なんとも男冥利に尽きる人生・・・と言いたいところですが、奥さんにすればたまったものではありません。故郷スリランカで二人が初めて出会ったのはTさんが十七歳、奥さんはまだ十歳にも満たない歳でした。Tさんに「一目惚れ」した奥さんは、別れ別れとなったその後もずっと想い続け、ようやく奥さんが二十を過ぎたころ、二人はめでたく結婚することに。
ところが、まもなくTさんは出稼ぎにバンコクへ行ってしまい、一人スリランカに残された奥さんは、ひたすらビザが降りるのを待つ毎日でした。Tさんはバンコクで、裏では偽造パスポートや不法労働者の仲介で収入を得ていたとのことですが、いざ正式に奥さんを呼び寄せるとなると、如何ともし難く、二人がまた一緒に生活できるにはそれから更に数年待たなくてはなりませんでした。
ようやく奥さんのビザが得られ、夫婦が一つ屋根の下で生活し始めたや否や、Tさんが発病。奥さんは家内作業で日銭を稼ぐ一方、Tさんの看護に明け暮れていました。いよいよ様態が悪化して、当ホスピスに運び込まれて来たのですが、それからというもの、この奥さん、片道三時間の道のりを毎日、毎日、お見舞いに来ていました。
そして昨日、またしてもTさんはこの健気な奥さんを残して旅立ってしまったのです。知らせを受け、駆けつけた奥さんの泣き崩れる姿には、本当に言葉がありませんでした。ここのホスピスでは、エイズということで、夫婦や家族からも見放されてしまった方々が少なくない中、極めて珍しいケースで、昨日ばかりは僕も涙を抑えることができませんでした。
Y.S.さん、この話から誰かをちょっと連想しませんか?この健気さ、たとえ世界中の人から「NO」と言われようとも、夫を信じ通す妻の愛。でもこうした悲劇はもうたくさんです。Mさんの支援、頑張りましょうね。
*****
ところで、ホスピスでの僕の直接の仕事というのは特に決まったものがあるわけではなく、普段はふらっと患者さんを訪問することくらいです。でも最近、そうした「いてもいなくてもいいような」存在にも、それなりに価値があるのかな、と思えるようになってきました(自分で言うのも何ですが)。ホスピスの中というのは、ある意味で、それだけで完結してしまっている社会で、スタッフはもちろん、看護婦さんや、お医者さんなど、ほとんど「必要な」人ばかりが集まっています。外からのお客さんも滅多にありません。
普通に生活していれば、例えば、出勤途中で挨拶を交す(けどほとんどそれだけの)近所の方とか、話したことなどないけどいつも同じ時間に駅や電車で出くわす「常連さん」とか、そんな、特別意味があるわけでもない、何気ない人との「出会い」がごく日常的にあると思います。
僕はホスピスに行く時間もまちまちで(まあだいたい夕方ですが)、寄付をお願いしに出かけたり、修道院などの用事で二、三日全く顔を出さない時もあります。なのにちょっとご無沙汰したりすると「よお、どこへ行ってたんだい?」「もう日本に帰っちゃったかと思ったよ」なんて言われて、これが結構、嬉しいものです。「あ、何となく気にしてくれてたんだな」なんて。
いったん退院しても、しばらくしてまた戻ってくるケースもあり、つい先日も「ヤイさん(僕のタイ語のニックネームで意味は「大きい」)、元気だった?」なんて聞かれて、「何で僕の名前を知ってるの?」と問い返したら「ほら、私前ここにいたじゃない。みんなに折鶴を作ってくれたでしょ?」「ああ!あれ?あの時は髪を長くしてなかった?」「今度は私にも作り方教えてね」と言ったやりとりをしたばかりです。
そんな、お互いを「どうしても必要」とし合うわけでもない、すれちがいざまに「ああ、どうも」と言ってニッコリ微笑むような肩に力の入れなくていい関係って、普段は気付かないけど、案外、社会の潤滑油となってるのかもしれませんね。
もっとも、人手が足りない時などは、一人で食事ができない患者さんのお手伝いをすることもありますが、慣れないせいもあり、結構、気を遣います。スプーンで掬ったお粥の量が少なすぎないか、多すぎないか。少ないと何だか物足りないし、多いとむせてしまいますからね。野菜類は筋っぽかったりして、上手に飲み込めない場合もあります。患者さんが口を開けたところへ適量を入れて差し上げるわけですが、呼吸を合わせながらそんなことを繰り返していると、なんだか共同作業をしているような気分になります。
十八世紀後半、茶人として名高い出雲松江藩の七代目当主、松平不昧公は「客の粗相は亭主の粗相、亭主の粗相は客の粗相」と茶の湯の人間関係を諭したそうです。要は、仮にお客さんが失敗したり、恥ずかしい思いをするようなことがあったら、それは亭主の気遣いや準備が足りなかったわけで、つまり、亭主の責任。そして、また逆も然り、というわけです。ちょっとばかりお茶を噛ったからと言って偉そうなことを言ったら僕の先生に叱られてしまいそうですが、時を超え、場所を超え、患者さんのこちらへの気の遣い様に接して、ふとそんな言葉が頭をよぎりました。また、こちらも気を遣っているつもりでも、ついつい、思い込みや主張が先行してしまったりして、相手の気持ちになって考えるって実に難しいことです。
茶の湯と末期エイズ患者のホスピスケアなんて、一見、全然関係ないようで、実はあるんですね。お茶では茶の一服が、そしてホスピスでは一匙の粥が、人と人を結んでくれるような気がします。
「だから、何事でも、人から自分にしてもらいたいと望むことを、人にもしてあげなさい」(マタイ7:12)ー。そう言えば聖書にもそんなことが書いてありましたね。
では。
1998年10月7日
ラムサイにて、仲谷郁治
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好岡節子様
日本は今一番良い季節ですね。インターネットで各地の美しい紅葉を眺めていると、日本の四季が恋しくなります。タイも今が一年中で一番過ごしやすい時期で、ラムサイにもショパンの夜想曲が似合うような(?)涼しく、静寂に満ちた夜が訪れます。
十一月は大学のOB会関係の行事などで頻繁にバンコクへ行っていた他、タイ人の友人と一緒にパタヤの近くの海軍施設見学に行ったり、その友人の奥さんのご実家のあるイサーンと呼ばれるタイ東北部へ旅行するなど、方々を飛び回っていました。
海軍施設見学では、購入したての空母の士官専用ラウンジでコーヒーをごちそうになった他、浜辺で潮風に吹かれながら極上ワインと新鮮な海の幸に舌鼓を打つなど、素晴しい一時を過ごしました。本来施設周辺は外国人立入禁止だそうで、「くれぐれも英語で話しかけないように」と念を押されてのことでしたが、まあ、ただその辺はお国柄なのか、「なんとなくタイ人」っぽければ、何とかなるみたいです。残念ながら、白人の場合はそういうわけにはいかないようですが。
イサーンへは二泊三日の旅でした。金曜の夜にバンコクを出発、米軍がベトナム戦争時に整備した「フレンドシップ・ハイウエー」をひたすら東北方面へ向かうこと約三時間、同地方有数の都市ナコンラチャシマ(コラート)に到着。実はコラートは今回の旅行に誘ってくれた友人Yや僕にとり、とても思い出深い土地でもあります。
約十年前、初めてタイを旅行した際、外国人がほとんど行かないタイ東北部へ行って見ようとバンコクからバスでコラートを目指しました。泊まるホテルも決めずに行ったのですが、到着したのはすでに夕方遅く。あたりに英語を話せる人はおろか、ローマ字表記の看板も見当たりません。ふとバスの中から「TOKYO HOTEL」と言う看板を見たのを思い出し、行って見たところ、そこは一泊90バーツ(約360円)という安宿。まだタイをよく知らない当時のこと、しかも以前東北部では共産ゲリラが出没!、などの噂もあり、不安を隠せないながらも、外は暗くなる一方だったので、「名前がトーキョーだからとりあえずいいか・・」と理由にもならない理由をつけてとりあえず泊まることにしました。
廊下を走り回る子供がうるさくて、ドアの鍵もほとんど役割を果たしていない状態でしたが、まあ、住めば都、何とかなるだろうと思ってくつろいでいたところ、落ち着いたとたんに、あっちの方がもよおしてくるではありませんか。トイレ(らしき)部屋のドアを開けると、中には和式便所の様な便器がある脇に大きなバケツに水が溜めてあるだけです。「ムム・・これはまさしく本で読んだ古来ゆかしきタイ式水洗便所に違いない」とピンと来たのですが・・・ということは・・・トイレットペーパーがない!。試してみようか、どうしようか、さんざん考えた挙句、手元のガイドブックのページをめくると、すぐ近くに一流ホテルがあるのを発見。「そこの売店なら売っているに違いない」そう思うや否や、買いに出かけることにしました。
人の出会いなど何が縁で生まれるかわからないものです。一流ホテルとは言え、当時のコラートでの話。売店でさんざん「トイレットペーパー、テイッシュ、クリネックス・・」などと言っても首を傾げるだけで、埒が開きません。途方に暮れていたところ、後ろからタイ語で何か声がしたと思ったら、ジャーン、トイレットペーパーが出てきました。まさに渡りに舟とはこのことです。振り返ると、眼鏡をかけた人の良さそうなインテリらしきタイ人の男性が立っていました。僕が「英語が話せるのですか?」と聞くと、「以前アメリカに留学したことがあるので少々」とのこと。
見知らぬ地で言葉の通じる人と巡り会うのは嬉しいものです。立ち話の後、「せめてお礼にコーヒーでも」ということで、一緒にお茶を飲んでいたら話がはずみ、すっかり仲良くなりました。それが今回イサーンへ一緒に行ったYとの出会いで、検察官の彼は当時(今でも)地元の大学で法律の講義をするためにコラートに滞在していたのでした。ちなみにトーキョーホテルも「一流」ホテルもまだ健在で、車で前を通り過ぎただけでしたが、とても懐かしく思いました。
ところで、イサーンと呼ばれる地方は民族的にも言語的にもラオスに近く、タイの中でも独特の文化を持つ地域です。ただ水の豊かなバンコク周辺の中央部とは異なり、米も年に一回しかできません(もっとも日本はそうですが)。人々は現金収入が乏しく、多くはバンコクへ出稼ぎに行きます。ある意味で、バンコクの経済はイサーンの人が支えている、と言っても過言でないほど、同市の所謂3K職場はイサーン出身の人が大勢います。レストランのウエイターや、タクシー、トラックの運転手、はては売春婦も多くがこの地方の出身です。こちらではイサーンと言うと、貧しさの代名詞のようにしばしば用いられるほどです。
一方、僕のイキツケの一杯飲み屋の板前さんは全員イサーン出身。「ビールでもどうですか?」なんて、カウンター越しに一緒に飲み始めることもあるのですが、みんな本当に人なつっこくて、あったかい、素晴しい人達です。ホワイトカラーの中にもYの留学時代からの親友で、僕もYと同じくらい親しくさせてもらっている弁護士のSや、外交官のPといったイサーンの出身者がいます。僕は彼等の故郷であると同時に、どうしても貧困のイメージが強いイサーンの地を是非もう一度訪ねて見たいとかねがねから思っていたのでした。
目指すブリラムのYの奥さんの実家へはコラートから更に車で二時間。奥さんの実家は町の中心部からも離れ、舗装されていない道沿いに、昔ながらの木造家屋が立ち並ぶ一角にあります。一帯は南国の樹木に囲まれ、古き良きタイの田舎の面影をそのまま残しています。
今回はYの奥さんの妹さんと、バンコクから田舎に帰られる奥さんのお母様と一緒の旅でしたが、そのお母様が繰り返し「私たちの家は大変な田舎で、日本からのお客様をお迎えできるような所ではないのですが・・・」とひどく気にされていました。僕が「とんでもありません。こちらの方こそご迷惑をおかけするのではないかと恐縮(心配)しております」とYに通訳してもらいましたが、そうしたお母様のお気遣いが、これまで欧米人と接することが多かった自分にとり、謙譲の美徳ともいうべき日本の古き良き伝統が遥かタイにもあることを知り、とても感慨深く思いました。最初は僕だけホテルに泊まる予定が、結果的には二晩とも奥さんの実家に泊めていただくことになったのですが、さんざん心のこもったおもてなしを受けたにもかかわらず、旅の終わりにYを通して「何かと失礼が多々あったのではないかと思いますが、くれぐれもお赦し下さい」とのお言葉をいただき、その奥ゆかしさに改めて感動した次第です。
タイには「グレン・ジャイ」という言葉があります。日本語に訳すと、謙遜とか、慎み深い、といった言葉に相当すると思いますが、これはちょっとしたことがきっかけで最近覚えた表現です。バンコクに泊まったある晩、タイ人の友人Sらと夕飯後、ホテルの部屋で飲もうということになりました。部屋で客室係に氷を持って来てくれるよう頼んだのですが、いっこうに来ません。すでに飲み始め、少々騒いでいたので、あるいはドアをノックする音に気付かなかったのかと思い、再度電話で問い合わせると、「もうお持ちしたはずですが、まだ届いていませんか。いずれにせよ、すぐお持ちします」とのことでした。僕が「今の感じだと、本当に持ってきたみたいだったよ。中から声が聞こえただろうし、もっと強くノックするとか、ベルを鳴らすとかすればいいのに。あ、でもそうしないのって、結構タイ人的かもしれないね。イマイチ、オシがない・・・」と言ったら、 Sがすかさず、「それはグレン・チャイと言うんだよ。更に強く出る、ということはあまりしないんだ」と説明してくれました。
グレン・ジャイは比較的広い意味で用いられ、必ずしも全てのケースにおいて日本語の「謙遜」と同じ意味というわけでもないようですが、例えば「どうぞご遠慮なく」というのはまさに「マイ・トン・グレン・ジャイ」と言って、「どうぞグレン・ジャイなさらないで下さい」という意味で使います。
日本では国際化などと言うと、英語を話し、欧米流のマナーを見につけることのように思われがちですが、一方、アジア人が欧米人や彼等の習慣に対してどのような見方を持っているかを知るのも興味深いものです。タイ人と話していると、その経済力や新しい文化への敬意は抱きつつも「ファラン(欧米人)はちょっと・・・」という人が少なくないのに驚かされます。理由を聞くとよく「ナム・ジャイ(水のように穏やかな心)がない」「グレン・ジャイ(謙遜)がない」といった答えが返って来ます。(もっとも欧米人全てがそうだとは思いませんが・・・)。
僕も英語を話していると、つい初対面などの際、欧米式に胸を張って握手してしまいがちですが、タイでは頭を下げながら合掌します。ここでは会話は英語でも、腰を低く、自然な形で頭を下げるなど、ジェスチャーは日本流でしたほうが、より気持ちが通じるようです。こちらが深々と頭を下げて「ありがとうございます」と言うと、相手方もとても丁寧に挨拶を返して下さいます。これは自戒の意味も含めてですが、日本がこれまでに育んで来た美しい精神文化を改めて見直す必要がありそうですね。
プリラムに着いた翌日の事です。Yの奥さんのお母様は大変敬虔な仏教徒で、毎朝欠かさず、近くの瞑想寺の日に一度きりの食事の手伝いに行かれるというので、僕も皆さんと一緒にイサーンの主食である炊いたもち米を持参してタンブン(お布施)に参りました。
タイのお寺というときらびやかなものが多い中、そのお寺は極めて簡素な上、僧侶の表情もとても穏やかで、地元の人の「森の僧」という呼び名がまさにぴったりでした。僕はタイにいながらもカトリックの施設にお世話になっていることもあり、残念ながらタイの精神風土の真髄ともいうべきタイ仏教と接触する機会があまりありませんが、今回は多少なりともその一辺に接することができたような気がしてとても嬉しく思いました。
外国からの客ということで、館主に呼ばれ、Y に付き添われて上座の前へ進み出ると、いきなり「どの宗教を尊敬するか」と聞かれ、せいぜい「どこから来たのか」など、一般的な話をするのかと思っていた僕は一瞬「目が点」になりました。下手に答えてせっかく僕を連れて来てくれたYや奥さんのご家族に気まずい思いをさせるわけにも行きません。ちょっと考えて「禅仏教とカトリックを尊敬します」と答えました。ところが注意深く館主の表情を伺っていると、今一つパッとしません。「う~ん。そうか。タイはテラワーダ仏教だから中国や日本のマハヤーナ仏教とは違うし・・・ましてや彼等にとってカトリックはファラン(西洋の)だし・・・でもタイ人でもないのにタイ仏教というのも変だし・・・」とあれこれ考えた挙句、「何故ならば、いずれもタイ仏教と同じく、瞑想(観想)を重視するからです」と付け加えました。すると一瞬にして表情がほころび、ニッコリ笑って「瞑想は好きか?」と聞かれました。ところが、これもしょっちゅう瞑想しているわけではないので、どうしようかと思いましたが、嫌いではない、ということにして「好きです」と答えると、「そうか」とうなずきながら満面微笑して、一握りのご飯と牛乳を下さいました。
ブリラム滞在中は、カンボジア国境近くの「パノム・ルン」というクメール王朝の遺跡を訪ねたり、奥さんの実家の近所の方の結婚式に飛び入りで参加させていただいたり、盛りだくさんでした。バーベキューでは新米と今一番旬の肴が振る舞われ、奥さんのお父様が、もち米に醤油の代りに溶き卵を塗ったイサーン特製焼きおにぎりを作って下さいました。残念だったのは、ちょうど今頃の収穫の時期に作られる「サートー」という、米で作った地酒を味わうことができなかったことです。どうも日本のドブロクと同じもののようですが、農家が簡単に作ることができるからでしょうか、表向きは醸造禁止となっている由。入手にはそれなりの「コネ」が必要だそうです。
車中から見るイサーンの景色は、収穫の時期を迎え、見渡す限りの田んぼに牛の群れが浮かび、小川で泳いだり、凧を片手に走り回る子供達の笑い声が響き渡っていました。素朴で息を呑むほどに美しいイサーンの自然には感無料の思いでしたが、それ以上に、同地で出会った方々の心の暖かさが何よりも印象的な旅でした。「イサーン人は人が善い」というのは本当でした。
旅行中、一つだけ、どうしても、胸が痛んだのは、以前知り合った日本人の方がやはり同地を訪れた際、「トイレには紙も無く、うさぎ小屋のような家に泊められた。外で食事をした際にも一番安くて汚らしいところへ連れて行かれた」と嘆いていました。大変悲しいことです。その方は一年の何分の一かを海外を旅行して過ごされる「海外通」で自称「親タイ家」の方でしたが、イサーンへ行って、高級リゾートでフランス料理でも食べるおつもりだったのでしょうか。地元の方々の心のこもった精一杯のおもてなしを罵倒していました。イサーンの方々の素朴な美しさに接すれば接するほど、同じ日本人として極めて遺憾に思うと同時に、大変恥ずかしく思いました。
国際化、国際化と簡単に言いますが、海外にどれだけ行ったことがあるか、外国人とどれだけ付き合いがあるか、ではなく、まずは人としての礼節、さらには心のあり方こそ大切なんだ・・・そんなことを改めて今回のイサーンへの旅で考えさせられました。
「今度は内緒でサートーを用意しておくから、是非またいらっしゃいね」そんなYの奥さんのお母様の暖かさが今でも忘れられません。イサーン、ガンバレ!イサーン万歳!!
1998年12月1日
イサーンに惚れ込んでしまった、仲谷郁治より
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(クリスマス・スペシャル!)
Y.S.様
「死ぬなんて別に怖くないよー」。様子を見に来た看護婦のシスターにヌー(仮名)(37)が小声でつぶやきました。「心の準備はできたのね」そう尋ねるシスターにも、彼は黙ったままです。彼の目はすでに光を感じなくなっていました。
「もし準備ができているのなら、自分を赦してあげなければだめよ。これまでしてきたこと全部。もちろん、他の人がしたことも」とシスターが続けると、ヌーは「そんなこと初めて聞いた」と不思議そうにつぶやきました。
ベッドの脇には彼が最後の力を振り絞って折った、色とりどりの折り鶴が飾られていました。
*****
ヌーがバンコク市内の病院から、郊外へ約六十キロ離れた、カトリック聖フランシスコ会が運営する末期エイズ患者のホスピスに運ばれて来たのは一九九七年のクリスマスイブの前日でした。
当初は一面に広がる芝生の庭を散歩したり、池の前のベンチで風にたなびくヤシの木を眺めたりしながら、穏やかな日々を過ごしていました。でも次第に視力は衰え、散歩も歩行器の助けを得なくてはならなくなりました。腹部の痛みが激しく、夜中に熱のせいで体が火照り、ベッドを降りてタイルの床に寝そべっているところをシスターが見つけたことも何度かありました。
年が明けた九八年の元日、ヌーがベッドでうとうとしていると、見慣れぬ日本人が金の折り鶴を手に「サワデイー、ピーマイ(明けましておめでとう)」と言って現われました。彼の国の言伝えでは、折り鶴は病を運び去ると言われているそうです。テレビでは見たことがありましたが、本物の折り鶴を見たのはそれが初めてでした。
それにしても、ヌーはその日本人のタイ語の発音はずいぶんまずいと思いました。タイ語は音程によって全く違う意味になりますから、「タイ人」と言っているつもりが、「死人」と言っているように聞こえます。「こりゃだめだ。直してあげなきゃ」そう思ったヌーは「明日は何時に来れる?僕がタイ語を教えてあげる。一日一語、覚えるつもりでね」と言い、二人は次の日にまた会う約束をしました。
あくる日、その日本人がヌーを訪ねてみると、せっかく折ってあげた鶴がくしゃくしゃの一枚の紙に戻っています。「どうしたの?」と彼が聞くと、「昨日の晩、自分で折ってみようと思って何度も試してみたけどだめだった」と悲しそうに訴えます。「わかった。じゃ、ヌーが僕にタイ語を教えてくれる代わりに、僕は鶴の折り方を教えてあげよう」。それから二人は仲良しになりました。
ヌーは自分の家族の事はあまり話しませんでしたが「僕の妻は日本にいるんだ。東京の近くのイバラギっていう所。でも三年前に行ったきり、手紙を書いても返事がない。水商売をしてたみたいだから、もしかしたらヤクザに殺されちゃったかもね」。そんな風にポツリとこぼす時の彼はいつになく寂しそうでした。
日本人がホスピスを去った後も、ヌーは折り鶴を作り続けました。朝も、昼も、夜も。「二百羽作ろうー」。次第に手に力が入らなくなり、目がほとんど見えなくなっていくにもかかわらず、彼は折り続けました。時を惜しむように、まるで自分が生きた証を残すかのように。
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ヌーが来た後、ホスピスではちょっとした「事件」がありました。ヌーの隣のベッドの患者さんの五百バーツ札が無くなってしまったのです。ヌーの部屋には四人の患者さんがいました。シスターが「もしお金を取った人がいたら、誰にもわからないよう、私の所へ来て返して下さい」と言っても、申し出る者はなく、またそのシスターも日々の忙しさに紛れ、そのことすらすっかり忘れてしまっていました。
ある日、ヌーが「シスター、お金は見つかった?」と聞くので、シスターが「まだよ」と言うと、「なんだ、シスターは教養があるのにだらしないな。ちゃんと調べなくてはだめじゃないか」とシスターを責めました。
数日後、シスターがチャペルで祈っていると、またヌーが来て「犯人はまだ見つからないの?」としつこく聞くので、「私だって警察ではあるまいし、どうすることもできないでしょう」と少々声を荒げて言うと、彼は黙って去ってしまいました。
自らの死期の近づいたことを悟ってか、ヌーは母親に会いたい、と言い出しました。シスターが家族と連絡を取ると、翌日、母親は急いで会いに来ました。そしてその後、急きょヨーロッパから帰国した彼の姉と一緒に、母親は再びホスピスを訪れました。ヌーがHIVに感染していることを知ったのは八年前のことです。別の姉は理工系の大学を出たヌーに自宅で仕事が出来るようにと、コンピュータの仕事を一生懸命探してくれました。
ヌーが運ばれて来た時、私たちは彼も他の患者さんと同様、身寄りもなく、社会から見捨てられた一人だと思いました。でも違っていたのです。家族が彼を見捨てたのではなくて、彼の方から遠ざかっていたのです。母親によると、末っ子で育ったヌーは子供のころからやんちゃで、いたずらをしては周囲の注目を浴びようとしました。それがかなわないと、スネてしまい、自分から距離を置いてしまうことがあったようです」とシスターは話しています。
後になって、ヌーがお金の無くなった患者さんの荷物をいじっているところを目撃した、という人が現われましたが、とうとうお金の行方も、またそれ以上のこともわかりませんでした。
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ヌーが息を引き取るほどなく前、こんなことがありました。不意に「僕も天国に行けると思う?」と尋ねるヌーに、シスターは「そうね。イエスさまにお願いするといいわね」と話しました。ほどなくしてヌーが「僕、夢の中で神さまを見たよ」と嬉しそうにシスターに話しかけました。シスターが驚いて「本当?話をしたの?」と聞くと、「うん。言葉にはならなかったけど、私を知ってるか、って聞くから、知らないけど、聞いたことはあるよ、って言ったんだ」と言うのです。「もしかしてこの人?」とシスターがキリストの絵を壁から剥がして彼に差し出すと、彼は「そう、そう!」と嬉しそうに言って、やさしく絵に口づけをしました。
九八年二月五日午後三時すぎ、シスターが午後の祈りを唱えている最中、ヌーは静かに天に召されました。HIV感染を告げられ、事実上、死の宣告を受けてからの八年間、精神的にも、肉体的にも、彼の苦しみがどれほどのものだったか、知る術もありません。どのようして感染したか、それもおそらく本人にしか分かりません。いずれにせよ、彼の苦しみの時は終わったのです。
二百羽を目指した折り鶴は、百五十六を数えてついに終止符を打ちました。
でも、彼が生きた証は、今も多くの人の心の中にしっかりと生き続けています。
風が吹く時、音はするのにそれがどこから吹いて来るのか、そしてどこへ吹いて行くのか、知る者はない(ヨハネ3:8)ー。
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Y.S.様
今ニューヨークからサンフランシスコへ向かう機中でこれを書いています。約1年のタイでの生活に終止符を打ち、3月から東京のパブリックリレーションの会社で働くことになりました。2月初めにバンコクを出発。東京に2、3日寄った後、ニューヨークの同業他社などを訪ね、「本場」の状況を視察する一方、これからのビジネスチャンスを探ったりしてきました。
南国ののんびりした生活から、いきなり冬のニューヨークでスーツを着ての「出勤」というのは想像以上に過激な変化でしたが、やっぱりマンハッタンはいいですね。アメリカの景気がいいこともあるのでしょうが、街にパワーがあるというか、人も躍動感に満ちていて「こういう環境で仕事ができたら面白いだろうな」とつくづく思いました。友達によると、ニューヨークでは「5分後は明日」と言うほど、何につけてもペースが早いそうですが、確かに人の喋る速さはタイの10倍です。
今回のアメリカ訪問にしても、基本的に日本とアメリカしか知らなかった自分にとり、タイという「第3国」も比較の対象とすることができたことはとても良かったと思います。以前書いたように、人間関係など、日本とタイとには驚くほど共通する面がある一方、タイ人の極めて「ゴーイングマイウエイ」的な生き方は、日本人よりもむしろアメリカ人に近いようにも思えます。
それにしても大好きなタイを離れるのは断腸の思いでした。バンコク最後の夜はタイ人の友達が送別会を開いてくれたのですが、涙が止まりませんでした。「日本に生まれ、アメリカで育ちましたが、心はタイと共にありますー」。そう言って別れを告げたのでした。もっともバンコクへの切符はまだ残っているし、すぐまた行くことになるとは思いますが・・。
今度はサンフランシスコから東京へ向かう飛行機の中です。ニューヨークでは、ラムサイにも1ヵ月ほど滞在した神父様のご好意でマンハッタンの修道院に泊めていただきました。ニューヨークでは仕事がびっしり入っていて、神父様を始め、友達とも食事を一緒にするくらいで、あまりゆっくり話すことができませんでしたが、サンフランシスコは長年の友達の家に泊まらせてもらった上、「WINING AND DINING」に明け暮れていました。ラムサイのジョンにもよくからかわれたものです。「君は生きるために食べるのではなくて、食べるために生きてるね」と。(ベーグルスはやっぱりおいしかった・・。)
滞在は約2週間でしたが、やはりアメリカというのはスゴイ国です。今回は特にマンハッタンでパブリックリレーションの仕事の現場などを見せてもらったこともありますが、インターネットやコンピューターなどを駆使した業務展開、といったハード面から、人権や労働を含めた「生きる」ための環境改善への取り組みにはまさに「明治時代の諸先輩が欧米を訪問した際に受けたショックはこういうものではなかったか」と思ったほどです。
教会のありかたへの取り組みにしても、日本とは大変な違いがあります。直面する問題は似たり寄ったりですが、取り組み方には雲泥の差があるようです。日本の教会が「神父様から有難い教えをいただく」という姿勢が濃厚なのに対し、アメリカでは「HOW CAN WE SERVE YOU BETTER?」(どうしたらよりよく奉仕できるか)と言うことを、神父様を筆頭に、教会の指導部が一般の信者に問いかけていたりすることです。そうした姿勢には保守派の強い反発もあるようですが、なにはともあれ、古いしがらみに囚われずに「前に進もう」というパワーは「さすがアメリカ」と思わざるを得ません。これからも日・米・タイを軸として何かいい仕事ができればと思います。
今は亡きラムサイの友の数々が僕に教えてくれたことは「今生きていてもいずれは死ぬ」ということではなくて「いずれは死ぬけど、今は生きているんだ」ということでした。
マザーテレサも「昨日は過ぎ去りました。明日はまだ来ていません。私たちにあるのは、今日だけです。さあ、始めましょう」という言葉を残してくれています。
今というこの一瞬、一瞬を大切に生きていきたいと思います。
1999年2月
機中にて、仲谷郁治